古伊万里 koimari 解説


古伊万里とは

古伊万里
 十七世紀という時代をわが国の陶磁史上にとらえて見ますと,まことに重要な時代であったといえます。歴史的には,江戸時代に入って幕藩体制が固まり,桃山時代に見られたような意力に満ちた作為を好む時代はすでに去ったかのように認識されがちですが,こと陶芸に関しては,磁器の創始という新しい時代を迎えて,極めて活発に発達展開していったのです。いわば,質的には桃山とはまったく異なったものでしたが,そこに示された意欲的な展開は桃山時代を凌ぐものがあり,肥前においては桃山時代よりも大きな産業的な性格を示しながら量産体制をなし,その規模の雄大さからいってもまことに大きな業績を上げた時代であったといえます。しかも,それが徳川家や親藩ではなく,桃山以来の製陶技術の伝統をもつとはいえ,鍋島藩や加賀藩によってなされたということは,それらの地ではなお桃山的な意欲が元和,寛永,寛文にかけて強く生きていたと見ることができるかもしれません。ことに鍋島藩領であった有田で,十七世紀後半から輸出産業としての陶磁産業が行われたことは,わが国の経済史の上でも特筆されるべき現象であったといえるのではないでしょうか。
 江戸時代を通じて伊万里焼という言葉は,有田で焼造される磁器すべてに対する通称であったらしく,おそらく藩の御用窯であった鍋島焼もそのなかに含まれていたようです。鍋島焼はともかく,今日一般に柿右衛門焼とされているものも伊万里焼として扱われていたことはすでに述べました。いうまでもなく有田郷一円で焼造された染め付けや色絵の磁器が,伊万里津から海路国内各地に積み出されたことから興った呼称です。
 江戸時代に有田郷一円で焼造された磁器が,伊万里焼,柿右衛門焼,鍋島焼などに色分けされ,近代的な鑑賞の場で評価されるようになったのは大正時代に入ってからですが,そこでは柿右衛門や鍋島に比していわゆる伊万里は一段格の低いものとされ,伊万里のなかでは俗に型物と称されるものだけが鑑賞の対象になっていました。ところが昭和二十年代に入ってから,型物よりも早い時期に焼造された初期の染め付けに対して一部の愛陶家が着目し,その絵付の暢達で南画的な風韻を賞味し出したのがきっかけとなってにわかに脚光を浴びるようになり,江戸時代の陶芸のなかでも最も魅力に富んだものとして「初期伊万里」が鑑賞の場に定着したのでした。
 一方,有田はなんといっても日本の染め付けや色絵磁器のメッカであっただけに,学術的な見地からも注目されるようになり,古窯址の発掘調査が水町和三郎,永竹威氏などの研究家をリーダーに行われ,さらに三上次男教授を団長とする発掘調査団が組織されて,磁器の発祥の史跡として名高い上白川天狗谷古窯址の発掘調査が昭和四十年から四十五年にかけて行われ,有田における磁器焼造の創始年代が従来の通説(元和二年―1616年,李参平創始)よりも古いことが判明したのであり『調査報告書r有田天狗谷古窯』参照),また昭和四十三年に有田外山の掛の谷窯址,四十四年に有田内山の猿川谷窯址,四十七年秋から三次にわたって有田外山の黒牟田系山辺田古窯址,四十九年天神森古窯址などが発掘調査され,さらに,初期伊万里焼のなかで大きな位置をしめる武雄系の百間窯,有田内山の稗古場窯,小樽,中It,大樽の諸窯,山小屋窯,有田外山の丸尾窯などから採集された破片類によって,初期から中期にかけてのいわゆる初期伊万里や古伊万里の作風と分布はほぼ判然としてきたのでした。そして今後さちに多。くの窯が学術的に調査され,それらによって作風の様式的編年などが行われ,伝世品を加えての総合的な考究がなされることによって,江戸時代最大の磁器生産地であった有田の磁業,いわゆる伊万里焼や柿右衛門焼のすべてが明らかにされることでしょうし,さらに古九谷と古伊万里との関係も判然とすることでしょう。
 本巻を編集するに当たっては,他の巻もそうであったように,ここでも伝世品を中心に収録し,今後の研究及び鑑賞の資料となりうることを目的としましたが,その内容は,近年大いに声価の高まった染め付けを中心とした初期伊万里の作品をかなり多量に集め,ついで江戸時代以来伊万里のなかでは最も声価の高かった色絵の型物を,これまたできうるかぎり多く集めてほぼその全貌を概観しえるようにし,さらに,十七世紀後半から十八世紀の前半にかけてオランダ東印度会社によって輸出され,近年ヨーロッパから再び請来された輸出伊万里のなかから特色あるものを加えて全体を構成し,それらを総称して「古伊万里」としました。したがって,ここには江戸時代後期寛政から文化,文政以後の作品はほとんど収録していません。
 創始期から元禄,享保にいたる間の古伊万里は,三期に大別してその変遷を概観することができます。すなわち,赤絵が創始されるまでの染め付けを主体とした青磁,白磁など,創始期から寛永,正保,明暦にいたる間の初期染め付け,ついで赤絵の創始を得た正保,明暦から寛文,延宝前期にいたる間,ついで輸出の全盛期であったと考えられる延宝から元禄にかけての作品の三期に分けられるのではないでしょうか。さらに第一期は,創始期と,ほぼ完成した染め付けが焼かれた寛永期との二つに分けることができるようであり,第三期の延宝から元禄,享保にいたる間の作品も,輸出用と内需用とに分けることができます。そして,内需用の特製品として焼かれたものが,後に述べるように,古伊万里型物ではなかったかと思われます。
 創始期の染め付けは,多くの人々が指摘しているように,ごく初期にあっては李朝風であったといえます。しかし,明確に李朝風の作品といえるものはそれほど多くはありません。上白川天狗谷の古窯においても,明確に李朝風といえる作品は,全体のなかでそれほど多い割合ではありません。やはり,染め付けが元和から寛永にかけて大量に生産されたのは,わが国において,当時,天啓年間のいわゆる古染め付けが中国から多量に輸入され,さらに崇禎年間に祥瑞が輸入されるなど,中国明末の染め付けに対する賞翫が大いに高まり.その影響を受けて有田においても量産されるようになったのですから,いちはやく中国風のものが焼かれるようになったのは至極当然のことといえます。そして,さらに中国風が和様化されてゆき,独特の伊万里様式といえるものに変化していったのです。ことに寛永年間に黒牟田山辺田窯や百聞窯で焼かれたと推測される大形の深鉢などは,明末天啓の染め付けをはるかに凌ぐ優作で,草創期なればこその盛り上がりをその作風に認めることができます。明末染め付けは,明代陶芸が末期的な様相を示した時期に焼造されたものでしたが,その影響を受けて発展した初期の伊万里染め付けは,勃興期にあったということがおのずから作風の上に反映したのでしょう。形式的でない自由奔放な絵付の作品が,数多く焼造されたのでした。
 ところが正保,明暦以後,染め付け磁器の焼造が飛躍的に発展を遂げ,さらに上絵付が行われるようになりますと,染め付けや色絵磁器は大きな拡がりをもち,有田の内山や外山各地の窯でさまざまの作風の染め付け磁器や赤絵素地が集団的な陶工群によって焼造され,上絵付は有田の赤絵町というこれまた集団的な工房で行われ,個性的な作風を示すことなく,分業化された生産体制のなかで行なわれたのでした。ために赤絵創始の栄光をになう柿右衛門焼といえども,有田における大きな産業体制のなかに埋没しつつあったことが,『酒井田旧記』からうかがわれるのであり,柿右衛門と伊万里を明確に分類することはおそらく当時でも困難なことであったかもしれないのである。このように赤絵が始まったことは赤絵素地を求めることになり,赤絵素地の焼造はおのずから染め付け素地とは異なった白素地または白地の多いものが焼造され,染め付けと赤絵素地との両者が並行して焼かれるようになっていきます。しかし,寛文頃から染め付けと赤絵を併用したいわゆる染錦手の作品が数多く焼かれるようになり、以後その傾向が,有田においては主流をなすようになりますが,柿右衛門窯では染め付けと赤絵とを分けて初代以来の伝統を守り,純白に近い乳白色の白磁素地を焼造したのでしょう。
 伊万里型物がいつ頃発生したかは判然としませんが,やはり染錦手の技術が充実してきた延宝末期から貞享,元禄にかけての頃に行われるようになり,元禄から享保にかけてがその最盛期であったと推測されます。さらに,定着した型物を基準にしてそれらの量産化を図るようになります。量産化のために作風はくずれていきますが,そうした傾向はとくに寛政以後に著しく,文化,文政から天保にかけてはまったくの量産化時代で,ごく一部には逸品製作も行なわれたのでしょうが,伊万里の陶業は大きな産業的基盤のもとに量産化が図られ,全国津々浦々の一般の需要に応じたのであった。
 有田で焼かれた磁器を「伊万里」と呼ぷようになったのはかなり古いことで,「隔茸記」によると寛永十六年に「今利焼」すなわち伊万里焼の呼称が記されています。したがって,寛永年間にはすでに伊万里津(港)から有田の内山や外山で焼かれた染め付け磁器が国内に移出され,伊万里焼として唐津物に替わって登場していたのです。そして,新作の国産品として,今日われわれが考える以上に珍重されたように思われます。『隔茸記』を繙きますと,寛永十六年から寛文八年にいたる間に,百三十五回にわたって伊万里焼が記録されている(140~141頁年表参照)。古伊万里の発達経過を側面から観察する上でこれほど貴重な資料はなく,これとオランダの商館記録などヨーロッパに残る第一資料を並列することによって,寛永から元禄,享保にいたる間の伊万里焼(柿右衛門も含めての)の動静は,記録の上でほぼ把握しうるのではないでしょうか。ヨ―ロッパ側の記録については,近く西田宏子氏が詳細な発表を行うはずですので,ここには『隔茸記』のみを記すにとどめました。
 寛永十六年から寛文八年の間に,有田ではいわゆる伊万里焼のほかに,柿右衛門の赤絵焼造がはじまっていますが,『隔莫記』には「柿右衛門」の文字は見あたらず,慶安五年にはじめて登場する「錦手鉢」すなわち赤絵の鉢も「今里」として記されているにすぎません。おそらく同記に七回登場する伊万里の錦手のなかには,柿右衛門焼も含まれていたかもしれませんが,すべて伊万里として記されています。また,ヨーロッパの資料にも「柿右衛門」という文字はないらしいです。とすれば,わが国においても,またヨーロッパにおいても,「柿右衛門」を「伊万里」と区別して扱う風習はなかったようで,その区別が行われるようになったのは,すでに『柿右衛門』の巻で述べたように,現代になってからです。柿右衛門が伊万里焼の一手として扱われていた記録は,私の知るかぎりでは,文化年間にあらわれさた『睡余小録』のなかに見られるのみです。
 したがって,われわれも今後の研究において,柿右衛門と伊万里を従来のような柿右衛門様式即柿右衛門焼という態度から脱却して,伊万里焼のなかでの柿右衛門様式,伊万里様式として扱うことが賢明なのではないでしょうか。事実,ヨーロッパに輪出された伊万里焼を見ても,柿右衛門と伊万里との区別は極めて困難です。近年にいたるまで,ヨーロッパにある作品を対象とせず,わが国に伝世したもののみを対象とし,また赤絵の創始者としての柿右衛門を強く意識したために,柿右衛門焼を過大評価しすぎたように思われます。有田の古窯址発掘によって,今日柿右衛門焼として扱われている柿右衛門様式の作品は,柿右衛門窯のみの製品でなかったことは明白です。したがって,『柿右衛門』に収録した作品の多くも柿右衛門焼ではなく,今日すでに一般的概念となっている柿右衛門様式の作品として図示したことを,ここでもふれておきたいです。そうした意味では,本巻に収録した作品も,初期伊万里染め付けをのぞいては,伊万里様式として受けとめてほしいです。いわば,柿右衛門と伊万里とが一体となってこそ,はじめて有田の磁業すなわち伊万里焼の全貌が把握されうるのであり,両者を明確に色分けすることは必ずしも当を得たものとはいえないのではないでしょうか。

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