偕楽園焼 かいらくえんやき

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鶴田 純久の章 お話

紀伊藩主十代徳川治宝の西浜御殿の偕楽園における御庭焼。
製作期間は1827年(文政一〇)頃

嘉永五 から治宝の逝去する1852年頃に至る間であります。
その窯に招聘された陶工は、1827年あるいは1833年(天保四)に来て1841年(同こI)まで従事した永楽保全(河浜支流の金印および永楽の銀印を賜る)、1827年に来て雀の香合をつくったという仁阿弥道八や楽九代了入・十代旦入(楽の印を拝領)、1836年(天保七)に来た二代弥助久楽(久楽の印を拝領)らいます。
また同地の瑞芝窯の陶工も随時来て製作したらしく、瑞芝窯吉兵衛と箱書付した品が残っています。
代表作品は釉の色が黄・紫・緑・紺・白などの、光沢が強く透明な交趾写しで、永楽保全の法であるといいますが、また享和(1801-4)の頃治宝に招かれた青木木米が瑞芝窯で焼いたのそのはじめであるともいいます。
その他唐津写し・乾山写しなど十数種の写しものがありますが、交趾写しに最も精作があります。
土は梨地色で鼠色を帯び、質はこまかで固いです。
釉色は深く光沢を発し荘重華麗の趣があります。
また前記以外に染付・青磁などの作があります。
図案は器物によって相違があるか、特徴とすべきものは寿字紋で、次に牡丹花。
の応用があります。
この二者は共に偕楽園焼を表徴するものといえましょう。
その磁器類の素地焼は主として有田郡広村(広川町広)にある男山の御用窯で焼成したと伝えられます。
また交趾釉の原料は直接長崎からもたらされたものであります。
なお普通紀州御庭焼と呼びますと、この偕楽園焼と後年の清寧軒焼を含めていいますが、後者はおおむね楽焼であります。
次に製器には無銘のものも多いですが、「偕楽園製」の二行角印(大中小の二、三種がある)、「偕楽園製」の字変わり二行角印(字変わりI、二種)、「偕楽園製」のカギ括弧付き一行彫銘(二種)、および書銘は「偕楽園製」と横書きしたもの、カギ括弧付き一行書き、同じく括弧のないものなどで、「偕楽園製」二行丸印、「偕楽」一行丸印の二種は楽焼に捺したものであります。
別に治宝公の御手製には葵紋の印のみを捺しています。
なお1871年(明治四)頃南条和田右衛門は旧城下元寺町(和歌山市元寺町)に一時窯を築き、偕楽園窯新製を企図しました。
(『観古図説』『日本陶器目録』『紀伊陶磁器史』石村賢次郎)※せいねいけんやきいろめ(蛙目)蛙目粘土の略称。
青蛙目・白蛙目・黒蛙目などがあります。
花尚岩の分解によって生じる一次カオリンの転位したものであるといいます。
その名称は混在する半透明の珪石粒が雨に潤う時、蛙の目玉によく似ていますので、この称があります。
瀬戸地方の方言で蛙を「がいろ」と呼びます。
のちに同種の粘土の汎称となりました。
主要な陶磁器の原料。
いろめねんど(蛙目粘土)カオリンを主成分とする粘土中に、蛙の目玉程度(二~五ミリ)の石英粒子が点在することからこの名が生まれました。
愛知県瀬戸地方の方言で蛙を「がいろ」と呼びます。
水簸して粗粒石英やキラと称する雲母鉱物を除き、カオリン質粘土として陶磁器原料に使用します。
一般に可塑性、収縮・乾燥強度が大きく、カオリンよりも低い熱度で焼固します。
木節粘土より微粒子が小さいです。
愛知県瀬戸市品野町・西加茂郡藤岡村御作、岐阜県土岐市土岐津町土岐口・原、三重県伊賀市などの花肖岩地帯から産出します。
(『セラミック原料』)

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