志度焼の陶工。
讃岐国三木郡志度浦(香川県さぬき市)の人。
字は田夫、号は松山、通称五番屋伊助。
1755年(宝暦五)平賀源内に釉法を学び交趾焼を模して製陶。
1781年(天明元)富田金山の麓に窯を移して南京染付をもつくりましたが、これを弟子の藤蔵に譲って1788年(同八)再び志度に帰り窯をつくりました。
そこから世間ではこれを志度焼といいます。
1796年(寛政八)高松城下に移り、その後また香川郡宮脇村(高松市宮脇町)に移りました。
1821年(文政四)7月10日没、八十四歳。
銘は楕円内に楷書で松山としたものを用いたので松山焼の名もあります。
赤松真・赤松清助はその子であります。
(『本朝陶器孜証』『讃岐案内』『讃岐陶磁器史稿』)