京都の陶家。号梅賓。
1803年(享和三)金沢に生まれました。
1815年(文化一二)京都に来て高橋仁阿弥の門に入り、文政年中(1818-30)師の命をもって伏見桃山三夜の荘に窯を築き楽焼をつくりました。
1847年(弘化四)岡山藩伊木氏に招かれ備前虫明焼に従い、同地の工人に技を伝えたことがあります。
1828、九年(文政一一、二)頃より五条坂に窯を設け、もっぱら青花甕・真白甕・金欄彩画などの器をつくりました。
1861年(文久元)没、五十八歳。
二代与平は初代の実子で五渓と号しました。
1844年(弘化元)生まれ。
継業後新たに白甕浮文の諸作を出し、1861年(文久元)禁裏御所および桂宮の御用命を賜りました。
1873年(明治六)京都府勧業御用掛りの職を奉じ斯業の発達に尽くしました。
1878年(同一一)没、三十四歳。
三代与平は二代の妹婿で、清山・晃浦・晟山などの号をもちます。
本家を継ぎ純日本式陶甕の作成に意を用いました。
1886年(同一九)京都陶磁器組合長となり、1893年(同二六)帝室技芸員を任命されたがこのことは陶芸界の最初であります。
1895年た。
1914年(大正三)7月15日没。
二男が家を継ぎ同じく与平を称し名工であります。
(『工芸鏡』『日本窯業大観』)