肥前鍋島藩士、日清と号しました。
京都の人で慶長・元和(1596-1624)の頃肥前国松浦(長崎県松浦市)に来ましたが、同郷の善兵衛という者の手引きによって高原五郎七の弟子となり、共に有田岩谷川内(佐賀県西松浦郡有田町)に移り青磁の焼成に従事していました。
そして五郎七が切支丹の疑いで逃亡したのであとを継ぎ御道具山の首脳となり、藩吏に採用され焼物御用など直接藩祖勝茂から用命を受けた。
1654年(承応三)10月5日没。
その後鍋島御用窯は南川原(有田町)・大川内山(伊万里市)と移されましたが、この間に副田家は子孫代々九世に及び、元和(1615-24)の末より明治の初めまで二百四十余年間に鍋島式ともいうべき独特の大川内焼を完成させました。
系図によれば、二代喜左衛門清貞、1667年(寛文七)9月没、三代藤次郎清長、1678年(延宝六)3月没、四代喜左衛門政宣、1724年(享保九)11月没、五代孫三郎政晴、1768年(明和五)8月没、六代権太郎政明、1770年(明和七)5月没、七代孫三郎政吉、1808年(文化五)11月没、八代喜平太雄隣、1817年(文化一四)7月没、九代喜左衛門豊雅とみえ、七代孫三郎政吉までの代々はいずれも陶器方を勤役してきたが、政吉の時に新たに皿山代官所が設置され大川内窯は代官所所轄となったため佐賀本藩へ召還されました。
(『副田家系図』寺内信一)
副田喜左衛門 そえだきざえもん
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