Picture of 鶴田 純久の章 お話
鶴田 純久の章 お話

琉球(沖縄県)の陶祖。
唐名は張鰍功、俗称は安次嶺掟親雲上といい、文禄・慶長役(1592-8)の時に朝鮮から薩摩国(鹿児島県)に帰化して製陶に従事しましたが、1616年(元和二)琉球の世子尚豊公が自国に陶法のないのを残念に思い島津侯に陶工の招聘を請願した際、一官・三官らと共に琉球に渡りました。
しぱらくして召還の命があったが琉球王はさらに島津侯に請い一六を留まらせ、邸宅を湧田村に与えて陶技の伝授に当たらせました。
一六は姓を仲地麗伸と改め敞借を結ぶなど現地との同化に努力し、業を琉球の人に伝えました。
これが琉球での製陶の始まりであります。
子孫が遺業を継ぎましたが、1730年(享保一五)に当時の琉球王は一六の功績を偉大であるとして子孫に士籍を与え、また次いで1765年(明和二)に一六の六世の孫康権を譜代家に進めて追賞しました。
(『張姓子孫家譜』『北村弥一郎窯業全集』)

前に戻る
Facebook
Twitter
Email