肥前有田の人。
1842年(天保一三)に許可された久富与次兵衛に次いで外国貿易を許され、もっぱら弟慶右衛門らに当たらせたが、ひそかに貿易品を三川内窯につくらせ、これを有田で絵付して肥喋山春甫製の銘を付したので、同地窯焼業者は憤慨し、深海政之助・平林伊平・久富竜右衛門らを総代として時の代官石橋三右衛門に訴えました。
しかし代官はかえって田代を庇護し総代らを殴打しました。
そこで業者はいよいよ怒り、深川真忠・深海墨之助・百田恒右衛門らが代表となって佐賀表に訴え出ました。
この時貿易株を久富・田代のほかに十株増加、上絵付業者十六戸をさらに六戸、窯焼百二十戸をさらに二十戸増加のことを議決し、合わせて本藩に請願しました。
それが受け入れられ代官石橋は罷免され、新たに百武作右衛門(兼定)が赴任し、田代の名義人である子の作助は体刑に処せられて騒ぎは落着しました。
なお田代は明治に至って横浜および中国の上海に支店を設け、わが国各地の製品を取り扱りました。
(『有田磁業史』)