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鶴田 純久の章 お話

美濃国土岐郡駄知(岐阜県土岐市駄知町)の窯。
一般に加藤景延の孫作十郎景治(あるいは久尻陶祖景光の弟景久の孫ともいう)を駄知陶工の始祖とします。
しかしすでに1436年(永享八)の頃水野惣九郎という者がこの地に開窯したとの記録があるようで、また慶長(1596-1615)の頃塚本喜助という者がこの地森向戸に住んで陶器をつくったともみえています。
磁器の創始については明らかな徴証がありませんが、文化年間(1804-18)に瀬戸から来た工人によって始まったと伝えられます。
この地に名のある駄知土瓶は1804年(文化元)頃、塚本源右衛門によって始められ、種類には糸目・松皮・吹絵の三つがあるようで、以来次第に世に広まり、1830年(天保元)の頃には岩村藩主松平能登守の産物となり、長谷川平七を取締役としてその専売に帰しました。
当時製造家はすこぶる盛大でありましたが、磁器が隆盛となるに及んで転業者が続出し漸次衰微しました。
続いて1867年(慶応三)塚本亀吉によって伊万里風の丼の製造が成功し、これが亀吉丼あるいは駄知丼として全国的にその名を高めました。
(『府県陶器沿革陶工伝統誌』『美濃陶器誌』『岐阜県産業史』『日本近世窯業史』『美濃焼の歴史』)

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