豊臣秀吉 とよとみひでよし

豊臣 秀吉
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鶴田 純久の章 お話
豊臣 秀吉
豊臣 秀吉

武人、桃山政権の掌握者。
通称藤吉郎、初め木下氏、のち羽柴を称しさらに豊臣と改姓。
後世尊ばれて豊太閤と呼ばれました。
尾張国(愛知県)に生まれ、長じて信長に仕え縦横俊敏の才をもって武功を重ねて頭角を現しました。
1582年(天正一〇)6月本能寺の変において明智光秀を山崎に破り、天下掌握の道を開いました。
1583年大阪築城。
1585年(同一三)従一位関白、1586年太政大臣に昇任し、1591年(同一九)関白職を猶子秀次に譲りました。
1592年(文禄元)朝鮮出兵、1597年(慶長二)再征。
1598年8月18日伏見城に蕪じました。
六十三歳。
秀吉は武辺のほかにつとに和歌・連歌・能楽を好み特に茶の湯を嗜み、覇者として信長の茶湯政道の精神を継ぎ文化政策の面で大いにこれを利用し、同時に数寄者としての一風を出しました。
早く1569年(永禄一二)堺に赴いた頃から茶に接し、1576年(天正四)安土築城の功により信長から大軸の絵を、同年12月但馬・播磨征伐の時名物乙御前の釜を賜り、1578年(同六)三木城で口切り茶会を営み、一五八「年(同九)中国地方経略の賞としてさらに八種の名物を貰っています。
1582年光秀討滅後の7月2日には本国寺、11月7日および1583年1月5日には山崎城、次いで坂本城で茶会を催し、同6月大阪城凱旋ののち7月上旬には連日の茶会、9月には城中で道具揃え、11月には京中の道具どもことごとくを取り寄せて一見、1584年1月には山里丸の茶席開き、1585年1月有馬温泉に赴き、同年3月大徳寺山内総見院で十一ヵ所の掛茶屋風の席をつくって士庶百四十三人を招いました。
かくして秀吉は信長の茶頭だった今井宗久・津田宗及・千宗易を思いのままに動かすこととなり、さらに山上宗二・重宗甫・住吉屋宗無・万代屋宗安・千紹安(道安)の五人を加えて関白召し抱え八人の茶湯者とし、その他多くの御伽衆を擁してあたかも文化サロンの王者の地位を確立しました。
次いで同年10月禁中小御所で正親町天皇に献茶し、この時かねて大阪城本丸につくった黄金の茶席を移し、特に宗易に利休なる居士号を与えてこれに奉仕させました。
その後1587年(同一五)1月また大阪城で大茶会、次いで同年10月1日には有名な北野大茶湯会を催し、その高札に「日本之儀は不及申数寄心懸有之ものは唐国の者までも可罷出候事。
茶湯執心においてはまた若党町人百姓以下によらず、釜一つるヘ一呑物一、茶なきものはこがしにても不苦候間提来可仕候事」と掲示し、所有の名物を残らず飾り、宗易・宗及・宗久と共に自ら席を受け持ち、参加の囲いは千五、六百軒、あまねく公家・武家・町人・百姓のほか、山科のノ貫・美濃の一化などの佗び者にまで茶を飲ませました。
1590年(同一八)小田原出征。
1591年2月28日事をもって利休に賜死。
1592年4月征韓の軍を統帥するため肥前国名護屋(佐賀県唐津市鎮西町)に馬を進め、ここでも山里の茶席を営み多く諸将を招いました。
1594年(文禄三)伏見城に移ったがまた山里丸を設け、茶室と学問所を設け、西笑承兌の記によれば「茶店有り火炉有り、心の欲する所に随ひ勝楽すべきの地也。
草堂を出ること数歩則ち重門有り、門内に入れば則ち高堂有り之を名づけて学問所と為す、大相国箇中に坐し有道の名士を集め、茶経を談じ茶器を翫び香色を論じ風味を賞す」というありさまでありました。
晩年の1598年(慶長三)3月15日醍醐の花見を興行、八番の茶屋を設けさせて絢爛たる清遊を楽しんです。
秀吉の茶は一方においては「桃山期」という時代を出現させた金碧燦たる権力者にふさわしい黄金の茶であるようで、権力の象徴としての「道具」誇示の茶でもありましたが、また一方においてはその特有の庶民感覚からする「茶屋」風の遊楽の茶であるようで、また一方においては「文化と学問」の規範としての利休流の佗ぴ茶であるようで、常にこの三方面を俊敏な政治感覚で統一駆使したのが秀吉の茶であったといえます。
しかし理念の茶としては深く利休の影響を受け、自らも「そこひなき心のうちを汲みてこそお茶湯なりとは知られたりけり」と詠じ、その『書院振舞定書』をみても厳重に一汁三菜の佗び振舞を定めたりしており、また利休の秘伝をもって自ら蒲生氏郷ら七人に台子の法を伝え、利休の死後にはことごとに利休の茶を追念している事実があります。
秀吉の大間味あふれる開放的な茶は『宗湛日記』などによって多くうかがわれます。
なお秀吉は利休の楽茶碗の「黒色」を好まなかったといわれ、これらのことがやがて時代に即した古田織部と志野焼や織部焼の登場となるのでありました。
なお秀吉が陶業を保護奨励したことは信長に劣らず、すでに備前国伊部村(岡山県和気郡備前町伊部)に下した制札があります。
また文禄・慶長の役(1592-8)は結果的に朝鮮陶工による多くの国内新窯の勃興をもたらし、実にわが国の陶業は、秀吉時代に画期的大展開をとげたといえます。

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