江戸時代には陶器は一般に各藩で保護されていましたが、ことに藩窯となって市販を禁じられたものは、その藩主の需要に供したのみならず、幕府への献上あるいは他藩への贈答品に供せられたため、精巧品が多くことに賞翫されます。
ときどき慰みに焼いた楽焼のようなものを除いてその著名なものは次のようなものであります。
島津侯の竪野窯(薩摩焼)、松浦侯の三川内窯(平戸焼)、黒田侯の高取焼、尾張侯の御深井焼、藤堂侯の丸柱窯(藤堂伊賀)、鍋島侯の大川内窯(鍋島焼)、紀州侯の偕楽園焼、井伊侯の湖東焼などであります。
その他にも藩費によって経営された窯は少なくないようです。
幕府は別に陶窯を置くことはしませんでしたが、元禄年代(1688-1704)に片桐石州の推挙によって摂津国(大阪府)より陶工高原藤兵衛を呼び、浅草本願寺(台東区)の前に一町四方の宅地を与えて茶碗をつくらせた(高原焼または浅草焼)のをはじめとして、ときどき御茶碗師を選んだことは『武鑑』の記載の通りであります。