実名は彰、字は有当、初め文峯と号しのち也軒また常真居士と称しました。
1850年(嘉永三)生まれ。
1877年(明治一〇)パリに行き東洋美術博物館館主ギメ一に知られてそこの客員となりました。
1883年(同一六)に帰朝して文部省学務局に出仕、岡倉覚三らと美術学校の創立に尽力し開校後そこの教授に任せられた。
この間無碍道人の名で『美術叢誌』などに執筆、また『国華』に「本邦陶説」「君台観左右帳記考証」などを連載。
1895、六年(明治二八、九)頃京都市美術工芸学校(現京都市立芸術大学)校長、1900。
一年(同三三、四)頃東京国立博物館美術部長を歴任し、再び美術学校でも教授。
1916年(大正五)東京の大倉集古館館長となりました。
なおその間内務省古社寺保存会委員を長く勤め、従三位勲三等に叙せられました。
書画骨董の鑑識に通じ世間では鑑定家として認め、趣味として坂田鴎客から南画を学び、また石州流・恰渓流の茶も巧みにしました。
1931年(昭和六)8月28日没、八十二歳。
晩年の著作に『茶器の見方』『日本陶甕史』『高麗茶碗と瀬戸の茶入』などがあります。
(塩田力蔵)