祝部土器 いわいべどき

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鶴田 純久の章 お話

須恵器の旧称。
須恵器は江戸時代以来茶人の間で行基焼と呼ばれ、また木内石亭はこれを曲玉壺と名付けた。
しかし明治に入って若林勝邦・坪井正五郎らが祝部土器の名称を用い始めるとこれが一般化し、長期にわたって支配的な呼称となりました。
その後祝部土器の名称が不当であることを指摘しこれに別の名称を与えた人もありましたが、いずれも効果がありませんでした。
やがて昭和に入り、後藤守一は祝部土器の名称を否定し須恵器と呼ぶことを積極的に主張しました。
その主たる理由は、祝部とは祭祀に仕える部民のことで、本来この文字は「はふりべ」と訓むべきであるという点にありました。
またこの種の土器が祭祀品としてだけではなく日常容器としても盛んに用いられていることから、斎兌・厳兌と書いて「いはひべ」と呼称することも不当であるとしました。
祝部土器の名称は一部で第二次大戦後まで用いられていましたが、近年これに代わってようやく須恵器の名称が普遍化しました。
なお須恵器の別称としては前記の名称のほかに、祝甕・朝鮮土器・斎甕土器・陶器・陶質土器などがありました。

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