江戸高原 えどたかはら

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鶴田 純久の章 お話

江戸浅草本願寺前(台東区)にあった徳川将軍家の御用窯で、大阪高原焼の分派であります。
大和国小泉(大和郡山市)の領主片桐石見守から四代将軍家綱に推挙された高原平兵衛は、1653年(承応二)に浅草本願寺前に屋敷を賜わって開窯し幕府御茶碗師となり、以来幕末まで続いていました。
肥前国三川内(長崎県佐世保市三川内町)の高原五郎七の弟子藤兵衛の子孫であるともいわれます。
この窯の製品は幕府本丸用の輪形抹茶碗であるといわれます。
1833年(天保四)の『武鑑』に「御茶碗師浅草門跡前、高原次郎右衛門」とあり、この頃まで永続したらしいです。
なお会津焼三代目水野瀬戸右衛門成紀は1679年(延宝七)7月に高原平兵衛のこの窯を視察したといいます。
また京都の瀬戸助は以前ここで製作したとも伝えられています。
(『工芸鏡』『集品解説』『陶器類集』『日本近世窯業史』)

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