明治年代の京都の陶工。
名は安太郎、松仙は号。
初め彦根藩窯湖東焼の御抱え稽古人として1857年(安政四)から陶画を習った。
廃窯後は京都の幹山伝七の工場に入り1876年(明治九)独立して五条坂で製陶しました。
古伊万里・仁清・乾山などの写し物が巧みで、その作意を応用し、かつ各種の彩画を研究し、また陶器の鑑定にも長じていました。
以来業績はますます上がり、博覧会などに出品して受賞したことも数回に及んです。
「松山」の書印または刻印を銘とし、一般に松山焼と呼ばれました。
1905年(明治三八)1月没、六十四歳。
二代松山もまた盛んに製出したといわれます。
(『湖東焼之研究』)