愛知県東春日井郡小牧村上末(小牧市上末町)の人。
1866年(慶応二)4月同村に生まれ、明治初期名古屋市に出て鋳屋に入りました。
その後独立して鋳屋を開業、1905年(明治三八)現在の安全ピンを発明して実用新案特許を得、のち安全ピンの製造と鍍金工場を経営。
第一次世界大戦勃発と同時に、当時名古屋を中心に瀬戸・東濃方面の輸出陶磁器の上絵付に使用中の金液(当時は水金と称し、すべて輸入品であった)の輸入が途絶し、一時は純金をわが国から現送してその純金に代わる分量の金液を交換輸入していた程の状態でありました。
兵之助はこの輸出陶業界の苦境を察し金液の国産化を決意しました。
その当時わが国内でも幾多の化学者がその試作・研究を行ないつつありましたが、いずれも失敗に終わり完成をみませんでした。
兵之助はここでたまたま鍍金技術の指導に雇い入れたドイツ俘虜マ。
クス、グ一ベン、センクバイェルらの協力を得て落合科学研究所を設立、1918年(大正七)本格的に金液製造の研究に乗り出しました。
その間1921年(同一〇)俘虜送還のこともあったりしたが苦心研究を続け、その後大正末に落合科学研究所を日独化学工業会社と改組・改称し、もっぱらドイツの技術を導入することに努め、このためには惜しげもなく全私財をこれに投入しました。
そして第一回・二回目の製品ができ上がりましたが、従来アメリカ製金液に馴らされている業界ではこれを受け入れず、借財は重なるばかりとなりました。
この時新しい資本家を得て三たび株式会社センクバイル商会と改称・改組し、1924年(同一四)デシャウェルの来日参画製造により初めて国産金液とラスタ一が業界に認晒られ始め、翌年には国産品擁護のため政府も輸入金液に対して関税を設けるに至りました。
こうして三十年間に近い兵之助の熱意と苦闘はやっと結実して、1927年(昭和二)その事業所名を日本金液株式会社と改称、陣容を新たに国産金液の製出に当たりました。
1932年(同七)名古屋市の自宅で六十五歳で没しました。
(『金液五十年の歩み』)