美濃国土岐郡多治見(岐阜県多治見市)の人。
父助四郎は早くから美濃産陶磁器が名古屋の域を出ないのを嘆き、東奔西走の結果村雲御所の御用、次いで幕府本丸御用と称することを得、また特に満留寿の商号の熔印を許されました。
これは安政年中(1854-60)のことであったといいます。
助三郎はこの基礎に立って濃栄社を設立し社長に挙げられ、また自ら満留寿商会を起こして京阪はもとより遠くシンガポ一ル・南清などに販路を開きました。
1888年(明治二一)5月岐阜県陶器業組合長となり、同年10月官命によって清国に渡りその陶業と商況を視察、このことがより陶磁器輸出の道を開くこととなりました。
また陶友会を設け陶磁学校の創立に尽力するなど美濃焼の振興にすこぶる功がありました。
1908年(同四一)3月没、五十二歳。
のち町民がその表功碑を建設。
なおその著に『大日本窯元一覧表』『陶器商便覧』『陶業立志談』などがあります。
(『岐阜県産業史』)