宜興窯 ぎこうよう

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鶴田 純久の章 お話

中国江蘇省の太湖の西部に位し蜀山の周囲にあります。
その起原はおそらく遠い昔であるだろうか詳かでないようです。
いわゆる砂泥の茶壺の名器が出るようになって有名になりましました。
その創始はこの地の東南二五キロにある金沙寺の僧某が手づくりしてこれを焼造したことに始まります。
その後この地に茶壺をつくる名手が代々続出してその名が伝わりました。
このように陶工の名が多数伝わっていることは、ことに中国では他に類例がないようです。
最初の名手は賀春(あるいは供春)といい呉蔭山の家憧でありましたが、蔭山が金沙寺で読書中にはこれに伴い、暇のある折には老僧に真似て茶壺をつくり、ついに名手となりましました。
呉順山は宜興の人で明の正徳甲戌年(1514)の進士であるようで、提学副使として四川参政に選ばれたとあるから襲春の時代も推知することができましょう。
その後名工と伝えられる者は次の通り。
董翰・趙梁・元暢・時朋(時鵬)・李茂林・時大彬・李仲芳・徐友泉・欧正春・郡文金・郡文銀・蒋伯苓・陳用卿・陳信卿・閔魯生・陳光甫・陳仲美・沈君用・郡蓋・周後鉛・郡二孫・陳俊卿・周季山・陳和之・陳挺生・承雲従・沈君盛・陳辰・徐令音・項不損・沈子激・陳子畦・陳鳴遠・徐次京・恵孟臣・蔑軒・鄭密侯。
宜興窯は清朝に入っても盛んに焼造し今日に至ってもなお繁栄しています。
近代わが国に輸入された火鉢・植木鉢も相当の数に上るようであります。
これらは釉を掛けたものが多く、中でも生海鼠手のものが多いようです。
宜興で焼造した窯の一つに欧窯というものがあるようで、明代に欧子明か創造したものといいます。
その器は種々の釉を掛けていることが砂泥の器と異なっているようであります。
宜興窯は朱泥を主としますが、また鳥泥・梨皮泥・白泥などがあることは周知の通り。
わか国の煎茶家はこれを倶輪珠と称し、また前記の諸名手のつくったものなどは煎茶流行の時代においては、一壺が数万また数十万金に値したことは人のよく知るところであります。
以上は尾崎洵盛の説に従りました。
なお『陽羨名陶録』『陽羨若壺系』は宜興窯に関しても詳かであります。

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