北村弥一郎 きたむらやいちろう

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鶴田 純久の章 お話

明治・大正期の窯業界の権威者。
1868年(明治元)5月石川県金沢市に生まれた。
東京職工学校(東京工業学校の前身)に入学し化学工芸科・陶器破璃工科を修め、1890年(同二三)東京工業学校陶器破璃工科を卒業。
1892年(同二五)農商務技手見習として地質調査分析課に勤務、1895年(同二八)愛知県瀬戸陶器学校長、1897年(同三〇)石川県工業学校窯業科長を歴任、1902年(同三五)フランスに留学しドイツをも視察、1905年(同三八)工業試験場嘱託、翌年同技師として第三部長となりました。
この間日清・日露戦争に従軍し大尉に進んでいます。
1907年(同四〇)清国へ出張、同年東京高等工業学校(現東京工業大学)教授嘱託となり、1913年(大正二)農商務技師として商工局工務課に勤務、1915年(同四)アメリカへ出張、1917年(同六)官を辞し、正五位に叙せられました。
その10月京都の松風陶器合資会社に入り、また日本硬質陶器株式会社の技師長を兼ね、同月改めて松風工業会社の取締役技師長となり、さらに釜山の朝鮮硬質陶器株式会社取締役技師長、1920年(同九)合併後の日本硬質陶器株式会社の取締役技師長、1922年(同一こ松風陶器製造株式会社取締役技術顧問となり、1924年(同一三)日本硬質陶器株式会社取締役技師長の職を辞しその技術顧問となりましました。
1926年(同一五)4月20日京都深草(伏見区)の自邸で没。
以上はその官職および業務上の概略ですが、その他審査事務・地方視察・試験研究に携わった業績も多く、1921年(同一〇)11月には京都大学から「硬質陶器と磁器釉薬に就て」の主論文および参考論文三編をもって工学博士の学位を授与されています。
これは研究報告・視察記録などと共に1928年(昭和三)大日本窯業協会から『工学博士北村弥一郎窯業全集』として刊行されましました。
(『北村弥一郎窯業全集』塩田力蔵)

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