土佐国(高知県)尾戸焼の創始者。
松伯・宗伯・正白ともあります。
当時大阪高津(天王寺区)に住していましたが、前身は帰化朝鮮人または九州系統の人ではないでしょうか。
また正伯は仁清の師であるとか弟子であるとか種々論議がありますが、その関係はいまだ不明。
1653年(承応二)8月山内侯の招きにより土佐に下り、高知城北尾戸の地(高知市小津町)に窯を築き、滞在五ヵ年、1658年(万治元)帰阪しました。
正伯の作品で後世に残ったものはほとんどないようです。
おそらく正伯が土佐にいたのは前後五年に過ぎず、しかもその間大阪の妻子のもとへ往復することが多く、また伝によれば焼陶ののち自ら槌を携えて窯場に入り不良のものを砕破したなどのためであるでしょう。
『観古図説』には本国のものによく似ているとあります。
本国とは朝鮮を指したものであります。
また絵付は仁清作と同一であるとありますが、尾戸焼に色絵の入ったのは後代のことですから、蜷川式胤所見のものが正伯所製の器であったかどうかは疑わしいです。
しかし正伯の作品は藩侯から将軍へしばしば献上され調子の高いものであることは諸文献が伝える通りであります。
正伯が去ったあとの尾戸焼はその弟子の森田久右衛門・山崎平内によって継続されました。
没年不明。
(『尾戸茶碗』『南国遺巫£『陶器考付録』『本朝陶器孜証』『観古図説』『陶器類集』『尾戸焼』)