麻寺山城国伏見(京都市伏見区)の人形師と伝えられています。もと浮田秀家の老臣林玄蕃の家来でありましましたが、天正年間(1573~92)に浪人となり、伏見稲荷神社の傍に住んで人形その他をつくり生計を立てていたので、世に人形屋幸右衛門と呼ばれた。伏見にはおよそ七年間居住したのち大阪に行き、豊臣秀吉に仕えて大阪夏の陣(1615)で戦死したらしい。東福寺に伝わる説では、同山門の楼上に安置した布袋は聖一国師が中国宋朝か将来したものといわれていますが、幸右衛門がとれをおもしろく思いこれに倣ってつくり始めたものですとしています。現在伝わっていますものに幸右衛門と落款のあるものが多いが、これは大方後人の偽造だといわれる。(『大坂軍記』『仇討天下茶屋譚』『工芸志料』『工芸鏡』『近古芸苑叢談』)