近江国(滋賀県)大津の陶。長等山焼・三井御浜焼ともいう。1850年(嘉永三)永楽保全は江戸開窯の計画をもって東下したが事志と違い、翌年5月との地に来てかつて交友のあった小泉義嶺の尽力により円満院門跡覚諄親王の御用窯として始めたもの。その称呼は大津の地が琵琶湖の南に当たるところから出た。保全はその年の冬の頃初窯を出し、翌1852年(同五)三井寺下鹿関町に移って一家を開き、京都からもと使用していた若草治助・針忠次郎らを呼び寄せ、京都・大阪その他の地方にも広く製品を販売し、御用窯といってもその実私窯の性質をもって、1854年(同七)まで継続した。その作品は主として茶器・酒器・皿・鉢・花器・香炉・置物などで、種類は染付・呉須赤絵・金襴手・蕎麦手・焼締物である。
そのうち染付は保全が最も得意とするところで、祥瑞写し古染付などに優秀なものがある。特にその絵はすこぶる達筆で、動物・昆虫などを生きているかのように描いた。その坏質は京都五条坂の窯に比べていくぶん焼き不足の感じがするが、かえってその中に一種の妙味がみられる。湖南製品の書銘には「於湖南永楽造」の六字二行のものが最も多く、「永楽保全製于湖南」の八字二行、「大日本湖南永楽保全造」の十字二行、「湖南永楽造」、および、木かつて赤山司より賜わった無保望「陶鈞」などがある。そのほか1850年秋に有栖川宮熾仁親王より賜わった「以陶世鳴」の款識があり、これは売品以外の製品に用いられ、湖南窯以外にみられない書銘である。以上の書銘のほ押印のものには、行書「長等山」無輪郭三字印、楷書「三井御濱」角輪郭四字二行印があり、あるいは「長等山」「三井御濱」の二個を共に用いたものがある。また隷書「長等」長角輪郭二字印は最もまれな記号に属し、「河濱」二字印は新堀浜か湖南窯かはっきりしない。また「永楽」二字の丸印大中小三個、隷書「河濱支流」四字の丸印なども湖南焼に用い、特に呉須赤絵・蕎麦手・炻器類など染付款記を用いにくい作品には「永「楽」の二字中小印を用い、「河濱支流」印はまれにみるのみである。次に保全の湖南窯の作品の箱書は、その箱の甲に内容の品名を書き、裏に於湖南保全造るとし右肩に永楽二字の中印を用いるの普通とする。またたまには辛亥仲秋などと年号を加えたものもある。紐は永楽紐と称する種類のものを使い、箱材は桐も用いるがなぜか湖南焼には薩摩のあるいは柾を用いるものが多い。
(『陶磁』三ノ四・六)※ほぜん