近衛予楽院 このえよらくいん

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鶴田 純久の章 お話

近衛家二十一世摂政・関白太政大臣。1667年(寛文七)生まれ。名は家。真覚・虚舟・物外楼主人と号した。基の子。母は後水尾天皇の皇女常子内親王。1705年(宝永二)関白・氏長者、1709年(同六)摂政・太政大臣の極官に達したが、間もなく致仕し、1725年(享保一〇)59歳の時准三后を宣下され、落飾し予楽院と号した。和漢の学に詳しく有職故実に通暁し、大唐六典の勘を成し遂げた。また書・花香の道にも深かったが、特に茶道においては織部流で宗和流をも窮めた常修院宮に学び、公家茶堂上茶の道を確立した。1736年(元文元)10月3日没、70歳。寛永の三筆の一人といわれる三藐院信尹は予楽院から数えて四代の祖、織部門といわれる応山公信尋は三代の祖に当たる。
【槐記】予楽院の言行口述をその侍医山科道安が伺候のたびに筆記したもの。初め『槐下与聞』と称した。前篇七巻後篇四巻。原本は亡失し数種の写本がある。刊本としては史料大観本、佐伯大太郎注釈本があり、『茶道古典全集』第五巻にも収録されている。内容は1724年(享保九)正月から1735年(同二〇)正月に及び、広博な予楽院の学芸見識がうかがわれるもので、花・香のほかに茶の記事が最も多く、挿画を加えるなどすこぶる貴重な茶道史資料とされる。なおこの書照応するものとして、1713年(正徳三)か1736年に至る予楽院の『家之茶会記』が陽明文庫に蔵されている。

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