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鶴田 純久の章 お話

沼浪弄山が伊勢(三重県)および江戸でつくった陶器。万古の窯は一度廃れたが、後世再び起こってからのちの万古焼に対し、旧窯の作品主として山の作をこのように呼ぶ。別称弄山万古。弄山は桑名の素封家で、初め楽しみに邸内に窯を設けて火度の低い楽焼の類をつくっていたが、のち許可を得て小向村(三重郡朝日町小向)に築窯し、付近の土を用いて製陶を試みた。宝暦年中(1751~164)に江戸向島小梅(墨田区向島)の別邸に移り、小向窯の法をもって製陶し、将軍家御成り先の御用や御数寄屋御用を仰せつかったという。これを江戸万古という。その製品は楽焼から入ってオランダを写し乾山を模し、次いで明代赤絵を写しさらに青磁を試み、織部・志野または高麗風のものに及んでいる。その作風は純朴で、絵付には好んで南画風の山水楼閣・人物・船など器物のところどころに額のように現わしている。赤色は明の古赤絵に比べて黒味を帯び、まれに金を使用したものがあり、俗にこれを江戸万古の特徴とするが事実は不詳。素地には多くの種類があるが、一般に白茶掛かりの素地には高麗の粉引あるいは白丹波に似た汚染があって、一種の味わいをなしている。「万古」の印は種類が多い。
大形の隷書様のもの、輪郭のない小印、小判形の輪郭のあるものなど。それらは多く器物の左へ捺し、また往々にして高台の縁へ捺したものがある。
1777年(安永六)弄山が没すると、その子義直は製陶を好まず番頭の安達新兵衛が小梅窯を取締まったが、のち加賀の某に譲ったという。
うして弄山の伝統は一時中絶したが、のち森有節・竹川竹斎によってその法が再興された。(『本朝陶器攷証』『工芸志料』『府県陶器沿革陶工伝統誌』『彩壺会講演録』『陶器講座』五)※えどばんこ※ろうざんばんこやき

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