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鶴田 純久の章 お話
豊助作 薄茶器
豊助作 薄茶器

名古屋の人、号は自然翁豊楽。もと高木姓であったがのち母の姓をとり大喜と称した。書道と茶道天満屋曲全に、俳句を吉原黄山に学んだ。また製陶の法を加藤豊八に習い、作品は一種楽焼を模した上に青釉を施したり、また器の外面に漆を塗これに蒔絵を施したり、あるいは素焼で土の色変わりを用いて墨流しのような自然の斑文を現わしたり、着色画で菊の盛上げなどをつくったり、彫刻したものなどで、製法は精巧である。1842年(天保一三)十一月藩の陶器師となり、藩主徳川斎荘より豊楽の二字を書いた額を賜わった。
1858年(安政五)十一月没、46歳。一般その作品を豊助釉または豊楽焼と呼ぶ。二代豊輔が陶業を継いだといわれている。なおモースは1882年(明治一五)名古屋豊助窯に赴き調査したが、当時の陶師は六代目を自称していたという。(『煎茶早指南』『工芸志料』『陶器類集』『エ芸鏡』『日本陶器目録』『名古屋市史』)

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