尾張瀬戸の赤津窯本家で、代々加藤仁兵衛を通称とし、分家の唐三郎太兵衛の両家と共に御窯屋三家の一つとして世に知られた。初代仁兵衛景卿は兄景貞(唐三郎家初代)と共に慶長年間(1596~1615)藩祖義直の命により美濃郷ノ木から召還されて赤津の地に帰り尾張家の御用窯となったもので、俗に古仁兵衛とも呼ばれる。喜左衛門重義・嘉中重英仁左衛門光重彦九郎重孝・定平景孝・景勝・景尚弥曽右衛門景典(号春山)宗四郎春岱・光太郎・梅太郎(今春岱)・春岱(再相続)増太郎の歴代中、重孝・景典は良工の聞こえが高く、中でも春岱に至っては瀬戸窯における近代随一の巨匠として知られる。また光重以来は歴代藩主の御庭窯御深井焼に従事した。
なお最後の増太郎は春の次男で、1864年(元治元)三月九日に生まれ、春岱の没後家を継いだが、病弱で陶業を営まず、1885年(明治一八)一月十五日に没した。子が無くついに仁兵衛家は断絶した。※かげさと