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鶴田 純久の章 お話
宝山作色絵菊唐草文手付鉢
宝山作色絵菊唐草文手付鉢

京都の陶家雲林院文造(文蔵)。その祖先は近江蓬国甲賀郡信楽郷神山村(滋賀県甲賀郡信楽町神山)の人で名を雲林院太郎左衛門尉唐光といい、天文年間(1532~55)に京都へ出て洛北加茂あるいは御池(北区上賀茂御泥池町)などに住み、神社供物の土器類をつくった。四代安兵衛になって清水坂に移り大仏の宮の御茶碗を製造し七代文造は三条粟田口分木町(東山区)に移り、八代九右衛門に及び徳川将軍の命により点茶器をつくり以来調進の例を開いた。九代安兵衛は粟田天王社の神職を兼ね、たまたま大和国(奈良県)生駒山宝山寺の僧某より「宝山」の号を贈られ以後この印を捺した。十六代文造はまた五条坂に移りもっぱら雅器・塑像をつくり、安政年間(1854~60)に粟田青蓮院の宮より泰平の号を賜わった。十七代熊之助も祖業を継ぎ明治に及んだ。しかし別伝によれば、初代は近江国信楽黄瀬の雲林院文蔵で、1660年(万治三)粟田口に開窯、1673年(延宝元)十二月に没したとあり、また宝山号については、1752年(宝暦二)に宝山寺の比丘尼に勧められ窯名に用いたという。そして五代文蔵の時赤絵並びに瑠璃釉の盛上げ模様、および堆朱・沈金彫りなどをつく平り、その後またオランダ写しをも製作し、代々「宝山」の印を用い、明治年間は十一代目に当たるとのこと。『本朝陶器攷証』『観古図説』『陶器類集』『日本近世窯業史』『日本陶瓷史』)

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