Gottfried Wagener ワグネル

Gottfried Wagener
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鶴田 純久の章 お話
Gottfried Wagener
Gottfried Wagener

ゴットフリート・ワグネル。ドイツ人。明治年代におけるわが国化学工業・美術工芸の大指導者。
1830年五月ドイツのハノーバーに生まれ、ゲッチンゲン大学で化学を専修し、卒業後ドクトルの学位を受けた。1870年(明治三)36歳・の時鍋島侯の招聘に応じてわが国へ渡来し、有田磁器製造所にて磁器窯の改良に力を尽くしたが、1871年廃藩置県の令が出て鍋島侯を解雇され、のち大学南校(東京大学の前身)の教師に聘せられ、1872年大学東校(東京大学医学部の前身)の教師に転じ、理科の教授を担当するかたわら勧業寮のオーストリア・ウィーン万国博覧会出品の事務に関与し、翌1873年佐野同博覧会総裁の一行と共にオーストリアに出張し一時大学を解雇されたが、文部卿より帰国後東京職工学校(現東京工業大学)を設立するよう委嘱を受け、1874年帰国し製作学校を設立してその教授となり、開成学校(東京大学の前身)の物理化学の教授をも兼任し、また博物館にも出仕した。1875年築地のアーレンス商社に入り、愛知県の七宝工塚本貝助らを招き七宝焼顔料の配合法などを教えて大いに改良を図った。1876年アメリカ・フィラデルフィア万国博覧会出品のことに関与して出品説明書を編纂し、アメリカへ渡航し数ヵ月間滞在し、同博覧会審査の委嘱を受けてこれに従事した。1877年製作学校・勧業寮が共に廃止となったため一時双方を解雇されてから、自費で七宝焼改良の試験に従事しこの道のために多大の利益を与えたという。1878年京都府の招聘に応じて同地医学校(現京都府立医科大学)の教師となり化学・物理を教授し、かねてまた舎密局において工業に関する試験をし、陶器・染色石鹸製造などの事業を起こし、京都の美術工芸を一新改良した功績もまた大というべきである。1881年(同一四)舎密局が廃止されたので再び東京大学の招聘に応じ製造化学を教授したが、1883年(同一六)以後大学教務の余暇に江戸川陶器製造所を借り自費で陶器製造の試験に従事し、ついに一種の陶器を製造した。その製法というのはまず素焼をし、これに蠟を引き、絵具松根油(テレピン油)で溶き、自分の思うところに彩色を施し、空焼窯へ入れてと松根油とを消散させ、最後に釉薬を掛けて焼くものである。
このように彩色を釉薬の下に施すことを主眼としたので、磁器上の絵のように釉薬の上に彩色するものとはおのずから相違し、わが国特有の絵画を施すのに最も適合しており、その素焼に筆を下すのに少しも筆勢韻致を失うことなく、あたかも絹絵に描いたものと異ならない。これは他の陶器ではいまだかつてみられなかった方法である。1884年文部省の嘱託を受けて東京職工学校(東京工業大学)の教師となり、1885年農商務省兼勤となり工業試験に従事し、さらに民間の顧問となって考案を授けたものも多い。1886年春開設の池会へ新製の陶器を出品し、二等賞銀牌を受け、また農商務省より額面や皿などの器を宮内省へ献納した。これより先この陶器に名称を付ける必要が起こり、吾妻焼の名を下し器物の裏面に鳶色で吾妻焼の印章を書いた。1887年春実験場を東京職工学校内へ移しいよいよ実地製造に着手した。しかし吾妻焼の名称は他に類似のものがあるというので同年に旭焼と改称した。旭焼の絵画は荒木探令・春名錦山に命じ、多くは土佐・狩野らの古名画を写させたという。ワグネルが一生の間に受けた名誉は多いが、その主なものを挙げれば、1874年(同七)オーストリア皇帝よりのフランツョセフ勲章、1875年プロシア政府よりの王冠勲章四等、1878年(同一一)天皇陛下よりの勲四等旭日章の受章や、1892年(同二五)二月待遇勅任官に准ぜられたような類である。またワグネルがわが国政府に博物館創設・山林保護法・窯業試験所設立の件を建議したこともその志の一斑を知ることができる。1890年(同二三)九月に一度ドイツへ帰ったが1892年(同二五)一月再び来日し、同年九月心臓病に罹り、十一月八日東京駿河台鈴木町(千代田区)の仮寓において没した。62歳。勲三等旭日章が贈られてその功労が褒賞された。ワグネルは帰化こそしなかったが、半世の事業をわが国の工芸美術に尽くした。(『旭焼研究来歴』『ワグネル氏履歴』『工芸鏡』『日本近世窯業史』『ワグネル伝』『日本窯業大観』)

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