広義には高台の高さをなす部分を一ヵ所から三、四ヵ所欠き割ったものをいう。朝鮮茶碗だけでなく萩・八代・薩摩などにもみられ、後世の倣作も少なくない。狭義には古くわが国に渡来した朝鮮茶碗の一類を指す。その高台の割り方によってさらに分けられ割高台・切高台・十文字などの称があり、この最も狭い意味での割高台は、高台を二ヵ所でV形に割ってあるものをいい、切高台は箆でいったん割ったあとさらにやや凹字形に切り込んだもの、すなわち切った跡がU形になっているものをいう。十文字は高台を土一杯に十文字に切ったり割ったもので、すなわちこれには切高台十文字と割高台の十文字とがある。朝鮮茶碗の割高台は古来高麗窯として知られ、おおむね厚手の筆洗形である。その高台を割ることについては、運搬する際数碗を重ねて縄を掛けるのに便利なので起こったといい伝えられるが果してどうであろうか。『茶道正伝集』に「高台の茶碗は秀吉公高麗入の時来るものなり、然るに古田織部見立にて名物となり候なり、高台は割り様に色々あり、薬の肌は何れも白めに堅手に似たる者なり云「々」とある。割高台の数は余り多くない。古来非常に尊重され大名茶碗にはなくてはならないもののようにみなされたのは、織部の推薦があったととによるものであろう。今泉軒の説に従えば、これらは室町時代に朝鮮より輸入した雑器で、十個ずつ重ねて縄で縛ったうちのいちばん外側の碗であり、これを後代の茶人がそのうちの外見の美しいものを選んで茶碗としたのであるから、同手の茶碗でも割高台のものとそうでないものとがあり、いちばん外側に最も出来のよいものを置くのは勿論のことだから、割高台のものは同手のうちでも優秀作であり、なおさら稀少価値がある。すなわち茶人にたいそう珍重されたのは、その時代が古いことと以上の理由による。『万宝全書』に「割高台かうだいに口伝あり寛永の手鑑に云時代二百四五十年井土手同前の物也堅手物也本筆すすぎにした物也代金五百枚也天下に七つ八つならではなし筆すすぎの故に(欠字)在物也それを摺落したる跡あり云々」という。(『万宝全書』『茶道筌蹄』『大正名器鑑』『陶器集解』『高麗窯茶器』)