上野喜蔵 あがのきぞう

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鶴田 純久の章 お話

豊前国(福岡県)の上野焼、肥後国(熊本県)の高田焼(八代焼)の創始者。
もと朝鮮釜山の城主尊益の子で尊階(一説に尊楷)と称しました。
文禄の役(1592-3)後加藤清正に従って来朝帰化し、肥前国(佐賀県)唐津に住んで陶器を製しました。
その後朝鮮に帰り高麗の陶法を研究して再び帰来。
1602年(慶長七)細川三斎忠興は尊階を豊前国に招いて上野郷(田川郡赤池町)に地を与え陶窯を築かせ、また郷名に因んで上野喜蔵高国と名乗らせました。
また喜蔵は小堀遠州について茶事を習い、その意匠を受けてつくった茶器が少なくなかったといいます。
1632年(寛永九)三斎の子忠利か封を移された時、三斎に従って長子忠兵衛・次子藤四郎と共に肥後に入り、三子孫左衛門と娘婿久左衛門は豊前に留めました。
初めは八代郡奈良木村(八代市奈良木町)で作陶、これが高田焼の創始であります。
のちにこの地を壺焼谷といきましました。
三斎は八代城にいてときどきその陶場を見分したといいます。
喜蔵の没年は不詳。
(『本朝陶器公証』『八代陶器伝記』『観古図説』『工芸志料』)

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