金継ぎを受け賜っています。お気軽にお問い合わせ下さい。

安國寺肩衝

安國寺肩衝
安國寺肩衝

安国寺肩衝(あんこくじかたつき)

中国製(漢作)の大名物茶入 別名「中山肩衝」とも呼ばれます。
東京の益田弘氏が所蔵しています。

名称の由来
戦国時代の僧侶であり大名でもあった安国寺恵瓊(あんこくじえけい)がかつて所持していたため、「安国寺肩衝」という名前が付きました。その後、細川三斎が西行法師の「佐夜の中山」の和歌の心(歌意)にちなんで、「中山肩衝」と名付けた経緯については、のちの「雑記」の中で詳しく記されています。

寸法・重量の現代換算
高さ:約10.9cm強(三寸六分強)
胴径:肩の部分が約8.5cm(二寸八分)、胴の中央が約7.9cm(二寸六分)
口径:約4.5cm(一寸五分)
底径:約4.7cm(一寸五分五厘)
甑(こしき)高:約0.9cm(三分)
肩幅:約1.8cm(六分)
重量:約172.5g(四十六匁)

付属品の一覧
蓋は2枚あり、す(窠)が入っています。御物袋は浅黄色の純子(どんす)で、波桜の模様です。
仕覆(袋)は5種類あり、唐物錦唐花模様、富田切、青木広東、伊予簾、唐物萌黄地宝尽くし、といった名物裂(めいぶつぎれ)で作られています。
挽家(ひきや)は黒塗りで、蓋に「安国寺肩つき」と書かれた紙が貼られています。挽家の袋はなく、紫色の二重袱紗(ふくさ)で包まれています。
内箱と外箱はどちらも桐の溜塗り(ためぬり)です。
これらの箱と袋箱をすべて入れるための「総箱」があります。

家康と安国寺肩衝にまつわる陣中の逸話(雑記)
津田秀政(初めは正秀、小平次と名乗る。仕官してからの号は興庵)に関する逸話です。
慶長5年(1600年)、徳川家康(東照宮)が上杉景勝を討伐するために関東へ向かった際、津田秀政もお供をしていました。下野国の小山(栃木県小山市)に到着した時、「石田三成らが大坂で謀反を起こした」という知らせ(いわゆる小山評定)が届きました。家康は非常に機嫌が悪く、御前に控えていた家臣たちも皆押し黙って言葉を発することができませんでした。
その張り詰めた空気の中、津田秀政が思い切って申し上げました。
「やがて殿が謀反人たちを平定されました暁には、西軍の安国寺恵瓊の財産はすべて没収されることでしょう。その中にある『肩衝の茶入』を一つ私にお与えくだされば、私はそれで茶の湯を楽しみたいと存じます」
これを聞いた家康は、この緊迫した状況下でこれまで付き従ってきた秀政の心意気を神妙である(感心である)と思い、「見事勝利した暁には、必ずお前の望みを叶えてやろう」と約束されました。
そして関ヶ原の戦いで大勝利を収めた後、家康はかつての約束通り、安国寺恵瓊から没収したその肩衝茶入を秀政に下賜しました。
津田秀政は、さらに二代将軍・徳川秀忠(台徳院)からも宗祇の墨跡(黒木)の掛物を賜りました。寛永12年(1635年)に京都で90歳で亡くなり、妙心寺に葬られました。彼の妻は滝川一益の養女でした。(『寛政重修諸家譜』および『東照宮御実紀附録』より)

茶入の売買と「中山」という名前の由来
『松屋筆記』や『三斎物語』などによると、この茶入にはさらに複雑な経緯があります。
「もともと玄旨(細川幽斎)が持っていた肩衝茶入でしたが、気に入らなかったため、安国寺恵瓊へ千貫で売却しました。その後、安国寺が家康公へ献上しました。石田三成の乱(関ヶ原の戦い)の際、津田平左衛門(秀政)が家康に『天下が殿の御手に入るのは間違いありません。その時には多くの肩衝茶入が手に入るでしょうから、どうか私に一つ拝領させてください』と申し上げたところ、家康は機嫌を良くしました。案の定、関ヶ原のたった一日の戦いで16個もの肩衝茶入が家康の元に集まりました。
家康は津田に新しい領地を与えようとしましたが、津田は『領地の加増よりも、青野原(関ヶ原)で申し上げた通り、御茶入を拝領したいのです』と重ねて願い出ました。家康は『もっともだ』と言って、没収した安国寺肩衝を津田に与えられました。
その後、細川忠興(三斎)がこれを『一万貫(莫大な金額)』で津田から買い戻しました。
細川三斎は、一度は手放した茶入が再び自分の元へ戻ってきたことを、西行法師の和歌『年たけて また越ゆべしと思ひきや 命なりけり佐夜の中山』になぞらえ、この茶入を『中山』と名付けました。
(和歌の意味:年をとってから、再びこの佐夜の中山を越えることになるとは思わなかった。命があったからこそ、こうしてまた越えることができたのだ)
三斎はのちに、これを息子の細川忠利(越中守)へ譲りましたが、忠利はこれを金子1600枚で酒井宮内少輔へ売却しました。」

茶人たちの風流な騙し合い(茶湯古事談などの異説)
一方で、茶書には全く別の風流な逸話も残されています。
「津田小平治(幸庵)は滝川一益の家臣で、隠遁してからは家康から茶道具一式を与えられて茶道を楽しんでいました。その道具の中には、幽斎の遺物として家康に献上された『中山』の茶入も含まれていました。
ある時、幸庵が細川三斎を茶会に招きました。三斎は日頃から、かつて父(幽斎)の持ち物だったこの『中山』を再び家に取り戻したいと思っていましたが、幸庵が家康から拝領した品であるため、言い出せずにいました。
お茶の時間が過ぎた頃、三斎は『中山をもう一度よく見せてほしい』と頼みました。幸庵が奥の勝手へ入っている隙に、三斎は茶入をサッと自分の袂(たもと)に入れ、同席していた人たちに『幸庵には、命なりけり佐夜の中山(また越えることになった)と伝えてくれ』と言い残し、挨拶もせずに帰ってしまいました。
奥から出てきた幸庵はこれを聞き、『年たけてまた越ゆべしとは思はねど、出し抜かれたり(また越えるとは思わなかったが、一杯食わされたわい)』と大笑いしました。
翌日、三斎から莫大な黄金が届けられました。幸庵は怒るどころか『面白い趣向だ』と厚くお礼を言い、そのお金で北野に寺を建立して菩提寺にしました。」

これらの逸話は細部が異なりますが、細川家から安国寺、津田秀政、そして再び細川家へと渡った茶入の数奇な運命を物語っています。

細川三斎が津田小平治(秀政)からこの茶入を買い戻した際、三斎は「金に糸目はつけない」と言いましたが、津田は「そんなに多くは必要ありません」と謙遜し、結局「金五百枚」で買い戻されました。三斎は大いに喜んで「中山」と名付けて秘蔵し、その後、息子の細川忠利(越中守)へ譲りました。
ところが、細川忠利が豊前国小倉(福岡県北九州市)の城主(37万石)であった寛永2年(1625年)、4月から8月にかけて領内が大旱魃(干ばつ)に見舞われました。農民たちは当面の食べ物にも困窮し、来年食べるための蓄え(夫食)など全くない状態となり、「このままでは餓死してしまいます」と役人に訴え出ました。
忠利はこれを深く憂い、心を痛めました。しかし、少しばかりの援助では到底足りないと考えた忠利は、ついに大きな決断を下します。先代(幽斎・三斎)から代々受け継いできた天下の名器であるこの「中山肩衝(安国寺肩衝)」を近習の侍に託し、「これを京都へ持参して売ってこい。質入れして金を借りる程度では民を救うには足りない。少しでも高く売り払い、その金で百姓たちのための食糧を何でもいいから買い集めてこい」と命じたのです。

近習が上方へこの名器を持参すると、欲しがる人はたくさんいましたが、「これは天下の名物だから、内々に売買するのは問題にならないだろうか」という噂が立ち、念のため京都所司代へお伺いを立てました。すると所司代の板倉重宗は、「あの肩衝の由緒はともかく、現在、越中守(忠利)殿が金銭を必要として売り払うというのであれば何の問題もない。望む者は心おきなく買い取るがよい。ただ、私もその名を聞くばかりでまだ実物を見たことがないので、売買が成立したら一度見せてほしい」と許可を出しました。
結局、老中である土井利勝の口添え(肝煎り)によって、酒井宮内大輔(忠勝)が「黄金千八百両(千八百枚)」という巨額で買い取ることになりました。
近習の侍はこの金を受け取るとすぐに大坂へ下り、米、大豆、麦、稗など、農民たちの食べ物になる穀物を手当たり次第に買い集め、船で小倉へ送り届けました。忠利は到着した穀物をすべて領民に分け与え、飢え疲れていた農民たちは大いに助かり、餓死を免れました。この話は世間で大いに話題となり、「領主たる者の素晴らしい手本である」と褒め称えない者はいませんでした。

善報による熊本藩の拝領
それから数年後の寛永8年(1631年)、加藤肥後守忠広(加藤清正の息子)が罪を得て、肥後国(熊本県)が没収(改易)されました。その後、江戸城内で新しい肥後の国主を決める会議が行われました。
この日の夕方、老中たちが帰宅した直後に再び急な登城の命令が下りました。将軍・徳川家光(大猷院)は非常に不機嫌な様子で、「今日、そなたたちと話し合って近日中に発表するはずだった『肥後国の新しい国主』の件が、なぜかもう世間に漏れて噂になっているではないか」と怒りました。
すると、老中の土井利勝や井伊直孝は次のように言上しました。
「これは、上(将軍様)のお考えと、下(万民)の願いが全く同じであったという素晴らしい出来事だと存じます。私どもが何か用件を江戸中に急いで触れ回らせても、その日のうちに全員に伝えることは不可能です。しかし、私どもの家臣が江戸の町で噂を聞き込んできたところ、『芝の辻』でも『牛込の辺り』でも、町人たちが『細川越中守様が肥後国を拝領されたそうだ』と噂をしておりました。誰も公式に発表していないのに、世間では『細川殿が拝領するべきだ』と専らの噂になっていたのです。」
これを聞いた将軍・家光も機嫌を直し、穏やかに事が収まりました。
誰が言うともなく、世間の人々が「肥後国は細川殿が治めるべきだ」と噂したのは、かつて忠利が「先祖伝来の名器を売ってまで領民の飢饉を救った」という素晴らしい善行(善報)があったからです。「天に口なし、人を以て言わしむ(天は直接言葉を発しないが、人々の口を通じてその意志を伝える)」とは、まさにこのことでしょう。こうして細川家は肥後熊本藩(54万石)の国主となったのです。

各茶書にみる「安国寺(中山)肩衝」の記録
・『古名物記』:中山肩衝は酒井宮内少輔の所持。安国寺が所持し、その後細川三斎が所持した。三斎がこれを入手した経緯から「中山」と名付け、他に比べるもののないほど秘蔵していたという物語がある。
・『玩貨名物記』『古今名物類聚』:中山唐物肩衝、大名物。酒井宮内殿の所持。

酒井家における忠臣の諫言(『武家七徳』に基づく解説)
この茶入を高額で買い取った庄内藩主(山形県)・酒井宮内大輔忠勝に関する逸話です。
酒井忠勝は、「黄金千枚(莫大な金額)」でこの茶入を求め、その口切の茶会に老臣たちを招こうとしました。すると、家臣の高力喜兵衛(こうりききへえ)がこれを聞いて「恐れ多いことですが、私だけはその席から外してください。茶入を拝見した時、涙を落として名器を汚してしまうでしょうから」と言いました。忠勝が怒って理由を問い詰めると、喜兵衛は次のように厳しく諫言(極諫)しました。
「黄金千枚もするような重宝は、四、五十万石の大大名であっても軽々しく買うべきものではありません。それなのに我が君は、領民や家臣の苦しい生活を顧みず、ご自身の欲望(嗜欲)を優先して仁義を捨てられました。これを見て、どうして涙を流さずにいられましょうか」
図星を突かれた忠勝は激怒し、喜兵衛を殺そうとしました。しかし、老中の松平伊豆守信綱や戸田左門氏鉄らが間に入って和解させ、喜兵衛は肥前平戸(長崎県)の松浦家に預けられることになりました。(名器を手に入れた代償として、忠臣を一人失ってしまったのです。)

幕府への献上と明暦の大火
酒井忠勝の息子・酒井忠当(忠尚)は、慶安3年(1650年)3月7日、父の遺品として名刀「国次」の脇差とともに、この「中山の茶入」を幕府へ献上しました。(『寛政重修諸家譜』より)
『徳川家御道具書画目録』によると、この茶入は明暦3年(1657年)1月19日の明暦の大火(振袖火事)の際、江戸城の炎上に巻き込まれて火に入ってしまい、その後修復(御繕ひ)が施されたと記録されています。寸法は高さ三寸六分、胴二寸五分七厘。挽家は黒塗りで、底は板起こし。火の気(火災に遭った痕跡)がある、と記されています。

伝来の総括
この茶入はもともと細川幽斎が所持しており、三斎に譲られましたが、気に入らなかったため安国寺恵瓊へ譲りました。その後、津田小平治(秀政・興庵)の元へ渡りましたが、細川三斎が再びこれを取り戻したいと強く願い、津田の茶会で「いのちなりけり佐夜の中山(またこの茶入に出会えるとは)」と言い残して持ち帰りました。翌日、三斎が黄金二百枚などを津田に贈ると、津田はその金で京都の北野に寺を建立したといいます。
その後、寛永3年に細川家の豊前領内が干ばつで飢饉に見舞われた際、細川忠利がこの茶入を「金千八百両」で酒井忠勝に売り、その代金を領民救済の資金に充てました。世間はこの立派な行動を称賛し、忠利がのちに肥後熊本藩主に封じられたのは、この善政の果報であると噂されました。
慶安元年(1648年・本文の慶安3年は誤記か)に酒井家から幕府へ献上されましたが、明暦3年の大火で幕府の宝物庫が焼失した際、幸いにも原形を損なわずに焼け残りました。その後、信州上田の城主・松平伊賀守へ伝わり、大正2年(1913年)の同家の売り立て(オークション)において、実業家で大茶人の益田紅艶(英作・鈍翁の弟)氏が落札しました。
大正8年(1919年)2月1日、益田紅艶氏が催した「黒明日庵天平茶会」において、高橋箒庵や根津嘉一郎ら名だたる茶人・数寄者たちを客に招き、この茶入が披露されました。

益田紅艶による「掘り出し」の逸話
大正8年の天平茶会において、この「安国寺肩衝」は、砂張(さはり)の水指や、国宝級の「玳皮盞(たいひさん)」天目茶碗とともに用いられました。
この安国寺肩衝は、大正2年(1913年)の子爵・松平信正家(元上田藩主)の入札の際、庵主(益田紅艶)が「八百円」という破格の安値で掘り出した大名物です。黒塗りの挽家に短冊形の紙が貼られ、誰の筆かは分かりませんが「安国寺肩衝」と書かれており、溜塗りの外箱にも同じような紙が貼られているだけでした。仕覆(袋)も由緒書き(書付)も一切なく、裸同然の状態で出品されていました。そのため、景色が面白い漢作茶入であることは分かっても、誰もこれが天下の大名物「安国寺肩衝」であると見抜く(見定める)者はいませんでした。
益田氏自身も実は二の足を踏みながら(半信半疑で)入札したそうですが、わずか七、八円という僅差で運良く競り落とすことができたそうです。
さらに不思議なことに、その後、酒井家から別に出品された3つの茶入の袋が、かつてこの安国寺肩衝に掛けられていたオリジナルの袋であることが判明しました。過去の深い因縁に導かれるように、現在ではその袋も益田氏の手に入り、再びこの茶入の付属品として揃うことになったといいます。(『東都茶会記 第七輯上 天平茶会』より)

大正時代の学術的実見記(鑑定記録)
大正9年(1920年)4月20日、東京府の下目黒にある益田英作氏の邸宅において、この茶入を実際に調査しました。
口の作りの捻り返しは標準的ですが、丸い口縁が一方に少し歪んでいます。甑(こしき)の周りは少し窪んでおり、肩先は少し面取りがされています。肩幅が広く、胴回りから下へ向かって次第に細く窄(すぼ)まっています。胴体のろくろ目は浅く不規則に回っています。
黒飴色の釉薬の光沢が非常に美しく、甑の際から肩先にかけて、さらには胴体の半分くらいまで、白色もしくは鼠色をした「蛇蝎(じゃかつ)の斑紋」が現れています。その斑紋は荒かったり細かかったり、あるいは村雲のように、または水に浮かぶ泡(泡沫)のように黒い釉薬の上に漂っており、なんとも言えない素晴らしい景色(模様)を作り出しています。
口の縁にはやや大きな疵の修復跡(疵繕い)があります。肩先から腰に至るまで、斜めに2本の長い「釉切れ(釉薬が掛かっていない部分)」があり、そこから少し離れた胴の中央にも、長さ約2cm(七分ほど)の釉切れが1本あります。
裾から下の部分は、鉄分を含んだ鉄気色の土(素地)が見え、底は板起こしの作りで、一面にヒッツキ(窯の中で他の道具などとくっついた跡)があります。
内部は甑の周りに釉薬が掛かっており、幅2cm(六、七分)ほどの釉薬のなだれが底の際まで達しています。
全体的に黒い釉薬の光沢が見事であり、特にこの「白鼠色の斑紋」は、他の中国製(漢作)茶入の中ではほとんど類例を見ない、極めて珍しく美しい特徴です。

【原文】

安國寺肩衝

漢作 大名物 一名 中山肩衝 東京 益田弘氏 藏

名稱
安國寺惠瓊嘗て之を所持せしに由りて此名あり、後細川三齋、西行法師佐夜の中山の歌意に因りて、之を中山肩衝と稱せし事雑記中に詳かなり。

寸法
高 參寸六分強
胴徑 肩の所 貳寸八分
胴の中央 貳寸六分
口徑 壹寸五分
底徑 壹寸五分五厘
甑高 參分
肩幅 六分
重量 四拾六匁

附属物
一 蓋 二枚 窠
一 御物袋 純子淺黄地波櫻模様(裏茶海氣、緒つがり焦茶)
一 袋 五ツ
唐物錦唐花模様(裏玉虫、緒つがり天鵞絨)
富田切(裏紋海氣、緒つがり萌黄)
青木廣東(裏茶海氣、緒つがり紫)
伊豫簾(裏玉虫、緒つがり紫)
唐物萌黄地寶盡(裏茶斜子、緒つがり遠州茶)
一 挽家 黒塗
蓋に張紙「安國寺肩つき」と書付
袋なし、紫二重袱紗にて包む。
一 内箱 桐 溜塗 几帳面 書付張紙
安國寺肩付
一 外箱 桐 溜塗
安國寺肩衝
一 總箱
右箱と袋箱とを入る

雑記
津田秀政(初正秀、小平次、仕號興庵)慶長五年、東照宮上杉景勝を征伐の時供奉し、下野國小山にいたる時に、石田三成等謀叛のきこえありしかば、御氣色よろしからず、御前祇候の人々も言葉なし。此時秀政申しけるは、やがて逆徒を平治したまはば、安國寺が調度没收せらるべし、それが中に肩衝の茶入一つを賜はらば、茶事を樂み申べしと言上す、其上これまで御伴に列せし志のほど神妙におぼしめさる。御利軍に及ばば、必ず汝が望を遂げらるべき旨仰を蒙る。關ヶ原凱旋の後曾て約したまへる肩衝の茶入を賜ひ台徳院殿よりも宗祇が黒木の墨跡の一軸を賜はる。寛永十二年正月二十九日京都に歿す、年九十、法名興庵妙心寺長興院に葬る、妻は瀧川一益が養女。
(寛政重修諸家譜)

津田小平次秀政、始め織田豊臣兩家に仕へ、此時君(家康)の御供して小山まで來りしが、上方の注進を聞かせ給ひ御氣色よからず、御側に伺候せし者も何といはむ様もなくてありしに、秀政進み出で、やがて上方の逆徒も誅伐し、安國寺が調度を没收せられむに、彼が珍藏せる肩衝の茶入を賜はらば、是をもて朝夕茶事を専にし、太平を樂まむと云出でしにより、御氣色直り、いかにも汝が願を叶へて取らせむと仰せられしが、後御勝利に屬しければ、兼て御許の如く、かの茶入をば秀政に下されしとぞ。
(東照宮御實記附録)

安國寺 細川越中守殿。(東山御物内別帳)

從玄旨讓の肩衝心に不叶とて、安國寺へ千貫に賣給也、次に安國寺權斷に(權斷の二字異本に於てさあり)家康内府様へ上る也、治部少亂に、津田の平左衛門被申上は、天下御手に入申は必定にて御座候間權斷に(此三字異本なし)肩衝多く上り可申、必拜領仕度と申上れば、内府様其事く~と御機嫌也、案の如く只一日の申に肩衝十六上る也、津田にも新地を可被下旨上意被成候處に、津田言上に、辱候へ共、御加増よりも青野原にて如申上候御茶入を拜領仕度と重て言上、尤とて、安國寺肩衝を拜領也、是を一万貫に忠興買取て、名を中山と付る。
年たけて又こゆへしと思ひきや命なりけり佐夜の中山此歌の西行法師あづまの方に修業して歸るとて、下りし時は又越ゆべしとも思はざりつるに、今越ゆれば何事も命だにあれば、うき事にも惡事にも逢ふと也、此心にて中山と付たり、息越中守へ讓るを、金子千六百枚に酒井宮内少輔へ遣す。(松屋筆記、三齋物語、和泉艸)

瀧川左近將監一益が臣津田小平治先手の隊將もし、武功重疊の士也、隠遁して幸庵といふ、東照宮にも輕からず御あしらひにて、駿府へ下りし時、御茶道具一通り下され老後の樂に爲すべしと難有上意ありし、幽齋が遺物に上られし中山と云ふ茶入、紀三井寺の茶碗、黒木の掛物等給りし、後京に住みて茶事のみに暮せし或時細川三齋を招請せしに、三齋日頃此中山を再び家に返し度思はれしかども、幸庵拜領の道具故申出しかねたりしに、此日茶湯過に中山を一覧見せ給へと乞ふて出させ、亭主勝手へ入りし間に、取て袂へいれ、相伴の人へ命なりけり佐夜の中山と傳へよといひて、暇をもなしに歸られしが、幸庵立出之をきゝて、年たけてまたこゆべしとは思はねど、出しぬかれたりとて笑になりし。翌日き黄(金カ)金納め置れるはいかとと言ひしに、幸庵苦しからず趣向有りて、厚く禮謝し、即ち其金にて北野に一寺建立ありて、一家の菩提所とせらる。黒木の掛物は津田平左衛門代まで持傳へしを、井伊掃部頭大望みにて、遠州を頼み仲立して貰はれ、今は井伊家にありとなん。
(茶湯古事談、古今茶話、茶事秘録、茶道竹の雫)

細川幽齋の歌道附同家相傳の茶入の事(略、前)此茶入元來は細川家の所持なりし仔細ありて安國寺が手に入り、夫より此度小平治方へ渡り候、然る所小平治細川家と懇意に候ゆゑ、所望致され、黄金澤山に御返禮あるべしと申され候へども、多く入用に無之との挨拶にて、五百枚にて出され、幽齋(三斎の誤なり)大悦して中山と名を付秘藏せられ、當時越中守へ讓られ候由也。然る所寛永三年四月より秋の末迄領分旱りし、土民ども餓死に及び候故、止事をえず土井大炊頭へ相談し、大炊頭世話にて酒井宮内大輔方へ、右の茶入中山を千八百枚にて遣はし、其黄金を以て領分并に家士等までも手當致され候、此事承り傳へ領主たる人の手本なりとほめ候由。(明良洪範)

細川越中守忠利重代の茶器を賣て領内の餓饉を救ひ給ふ事附肥後國を忠利に給ふ事。 大猷院様の御代までは細川越中守忠利、豊後國小倉の城主にて三十七万石を領せられしに、寛永二年四月より八月まで領分大に旱魃するに依り、百姓共當分の食物にも難儀いたし、況や來年迄の夫食の心當はすこしも無之候と、役人中へ訴ふ、忠利殊の外苦勞に思召され候へども、少分の救にては濟難きより、御先代幽齋以來相傳の名物の茶入を近習の侍に授られ、是を京都に持參し質物に遣はし、金子を借候位にては事足り申まじき間、少なりとも直段よろしく賣拂ひ、其金子を以て何にても百姓の食物を買調來るべしと命せらる、近習則上方へ此名器を持參いたし候所、望人數多これありしかども、此茶入天下の名物ゆゑ、内々にて賣買いかゞといふ沙汰ありて、所司代に伺ひしに、板倉周防守重宗御申候は、其肩衝の由緒はともかくもあれ、當時越中守殿金子入用に付て賣拂はれ候に於ては別義なし、望の者は心次第に買取るべし、但此茶入の義は我等も名のみ聞き及びて未だ見申さざる間、彌買求て代銀取遣も相濟候はゞ、一覽いたししと御下知有之て事濟たり、近習の侍は金子を受取り、大阪表へ下り、米大豆麥稗其他何によらず、農人共の食物になるべき類の諸色を右の金銀にて買調へ、小倉へ着
安國寺肩衝
百六十四

岸の後、其穀物を悉く領分へ割あてへられしに、飢疲れたる農民大に力を得作業に取つき、餓死をまぬかれたり。此事世上大に取沙汰して、國郡の主のよき手本と譽めざるものはなかりしと也。其後寛永八年、加藤肥後守忠廣罪ありて肥後を没收にあひし後ある日御城に於て、肥後國新國主の御沙汰あり、此日は御老中方いつよりも一時も御退出遲く、七時頃漸く御歸宅なりしに、直様又頻りに御召あり、皆早乗物にて御登城なり。大猷院様殊の外御不興の御容體にて、今日各より言上仕りたる肥後國主の儀は近きうち申渡すべき事なるに、早や世間に存じたるよし、御機嫌あしくおぼしましけるに、土井大炊頭利勝仰上られ候は、是は上一人の思召、下万民の存よりと一同仕り、一段の義に存じ奉り候。其子細は何事によらず急に相觸すして叶はざる御用ありて、役人どもへ申渡し隨分急に觸させ候ても、其日の内には觸届き申がたきものに御座候所、肥後國主の儀は私共日々兩人宛物聞を出しおき江戸中の沙汰を聞かせ候に、今日いまだ御城に相つ免歸宅仕ざるに、一人は芝札の辻、一人は牛ごみ邊にて、細川越中守肥後國拜領仰付られ候儀承はり候よしにて、右の書付用人共まで差出し候間、則上覽に入れ候とて御差出し有之、井伊掃部頭直孝も右同樣に仰上られ候所、大猷院様にも是にて御機嫌御和らぎ遊され、穩に事濟しとなり。此時誰いふとなく、世上には専ら肥後國は細川殿御拜領有べしと取沙汰せしは、名器を賣て飢饉を救はれし善報なり、天に口なし人を以ていはしむとは、かやうの事なるべし。忠利うられたる名器は、もと細川三齋の所持なり。其後安國寺惠瓊の手にわたり、安國寺死刑の後將軍家より御約束のよしにて津田小平太にたまひしを、三齋又津田氏に所望せられ、黄金五百枚に買もどされ、中山と名付て秘藏せられしなり。忠利御賣拂の時は、土井大炊頭利勝の肝入にて、酒井宮内大輔忠勝、黄金千八百兩に買求められたり。

安國寺肩衝
右は大道寺氏の落穂集、板坂氏の卜齋物語にて志るせりと、細川桃庵の書そへあり。白石先生手簡の中に、桃庵事は浪人の時江戸上野寺中に居住、拙者若き時あひ申候とあり。
(金森得水編古今茶話)

中山肩衝 酒井宮内少輔 安國寺所持其後細川三齋所持なり。此茶入は三齋數寄傳授等無之とき御覽なされ、依然御手に入らず其後年長て御手に入申候、仍て中山と號し御秘藏無他品の物語共有之、師傳不請也。(古名物記)

中山唐物肩衝 酒井宮内殿。(玩貨名物記)

中山 唐物 大名物 酒井宮内少輔。(古今名物類聚)

庄内侯酒井宮内大輔忠勝、嘗て黄金千枚の茶入を求め其口切の時諸老臣を召さんとす、高力喜兵衛聞きて、忝なく候へ共我等のみは除きたまへ、拜見の時涙を落して名器を汚し候はんと言申す、忠勝怒て其故を詰れば、喜兵衛黄金千枚の重器は四五十萬石の大諸侯と雖も輕く買求むべからず、然るに君は士民の艱苦を顧み給はず嗜欲を専にして仁義を棄て給ふ、爭でか落涙仕らざらん云々と極諫す、忠勝益怒りて喜兵衛を殺さんとせしが、松平伊豆守信綱、戸田左門氏鐵の和解により、喜兵衛は肥前平戸の松浦家に預けられたりと云ふ。(武家七徳)

酒井忠當(初名忠尚 播津守 宮内少輔)元和三年高田に生る、正保四年十二月十一日遺領を繼ぎ、慶安三年三月七日、父(忠勝)が遺物國次の脇差、中山の茶入を獻す。
(寛政重修諸家譜)

中山肩衝 酒井宮内少輔上る。明暦三年正月十九日御炎上の節火に入り御繕ひあり、高三寸六分胴二寸五分七厘。挽家黒塗、板起し、火氣あり(茶入圖あり)。(徳川家御道具書畫目録)

傳來
此茶入は元細川幽齋所持にて三齋に讓られしが、三齋心に叶はずとて之を安國寺惠瓊に讓れり、然るに津田小平治(號興庵、寛政重修諸家譜に由る)が其頃細川三齋は此茶入を手放したるを悔い、津田の茶會に赴きたる時、いのちなりけり佐夜の中山と主人に云ひ傳へよとて、竊に之を持歸り、翌日使者を遣はして時服樽肴黄金二百枚を興庵に贈りしかば、興庵其金を以て京都北野に一寺を建立せりといふ。其後寛永三年細川の豐前領内旱魃にて餓死の民を生ずるに當り、越中守忠利此茶入を金千八百枚にて庄内の城主酒井宮内大輔忠勝に賣り、之を領民救恤の資に充てしかば、天下傳へて其美擧を稱し、忠利が程なく加藤忠廣の領土肥後の國主に封せられたるは、此善政の果報なりと取沙汰せり。慶安元年三月七日、酒井忠勝の子忠當其父の遺物として此茶入を幕府に獻せしが、明暦三年(世の大火に逢ひ幕府の寶藏に於て當に焼失すべき筈なりしに、幸に原形を損せずして其後信州上田の城主松平伊賀守に傳はり、大正二年同家藏器賣却の節、益田英作氏に落札せり。
大正八年二月一日益田紅艶(英作)日、黒明日庵天平茶會
客 高橋箒庵 野崎幻庵 根津嘉一郎 藤原銀次郎 越澤宗見
茶入 安國寺肩衝 水指 砂張
天目 玳皮盞
安國寺肩衝は大正二年松平伊賀守家子爵松平信正藏器入札の節庵主が八百圓にて掘出したる大名物にして、黒塗の挽家に短册形の張紙して、何人の筆にや安國寺肩衝とあり、溜塗外箱にも亦同樣の張札ありて、袋もなく書附もなく、裸同樣にて出品されたるが爲め景色面白き漢作茶入とは見受けたれども、誰とて之を大名物とは見定むる者なく、庵主も實は二の足を踏みながら入札して、僅に七八圓の差にて運好くも手に入れたる次第なるが、其後別に酒井家より出でたる茶入の袋三個は、不思議にも嘗て此肩衝に掛り居たる者にて、過世の因縁淺からざりけん、今は其袋も庵主の手に入りて此茶入に附属するに至りたりと云ふ。(東都茶會記第七輯上天平茶會)

實見記
大正九年四月二十日、東京府荏原郡下目黒益田英作氏邸に於て實見す。
口作拈り返し尋常、丸縁稍一方に歪み、甑廻り少しく窪み、肩先に於て少し面取り、肩幅廣く、胴廻りより次第に窄まる、胴體轆轤淺く不規則に廻り、黒飴釉光澤麗しく、而して甑際より肩先にかけ、胴體半分まで白若くは鼠色の蛇蝎斑紋或は荒く或は細かく、村雲の如く又は泡沫の如く、黒釉の上に漾ひて、得も言はれぬ景色を成せり。口縁に於て稍大なる疵繕ひあり、肩先より腰に至るまで斜めに二本の長き釉切れあり、是れより稍隔たりて胴中に長さ七分許の釉切れ一線あり、裾以下鐵氣色の土を見せ、底板起しにて一面にヒッツキあり、内部甑廻り釉掛り、幅六七分許の釉なだれ底際に達す、總體黒釉光澤物を鑑すべく、其白鼠色斑紋は、他の漢作茶入中に於て殆んど類例を見ざる所なり。

タイトルとURLをコピーしました