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木下丸壺

木下丸壺(きのしたまるつぼ)

中国製 中興名物 所蔵:酒井忠道 伯爵

名称の由来
木下勝俊が所持していた丸壺であるため、この名があると言われています。勝俊は、太閤秀吉の正室・北政所の兄である杉原家定の子です。幼い頃から秀吉に仕え、成長して播州龍野(兵庫県)の城主となり、後に若狭(福井県)に移って9万石を領しました。慶長5年(1600年)に徳川家康が東国へ出兵した際、伏見城の守将となりましたが、戦いの後に領地を捨てて京都の東山に隠棲し、晩年は西山に移りました。長嘯子(ちょうしょうし)また天哉翁と号し、和歌を嗜んで自然の風物を友とし、慶安2年(1649年)6月15日に死去しました。享年81歳。彼の歌集を『挙白集』といいます。長嘯子には後継ぎがなく家系は絶えましたが、その弟の利房が備中足守(岡山県)で2万5千石を領し、現在の子爵・木下利玄氏の祖となりました。利房の弟である延俊は豊後日出(大分県)で2万5千石を領し、現在の子爵・木下俊哲氏の祖となりました。これらを「木下の二家」と呼びます。

寸法(1寸≒3.03cm、1匁≒3.75gで換算)
高さ:約6.79cm(2寸2分4厘)
胴径:約6.67cm(2寸2分)
口径:約3.09cm(1寸2厘)
底径:約3.03cm(1寸)
重量:約84.0g(22匁4分)

附属品
・蓋:1枚(窠:くぼみなし)
(備考)『土屋蔵帳』には「蓋7枚、うち休味作1枚、立佐作1枚、相坂丸壺の蓋の写しが5枚」とありますが、現在はただ1枚あるのみです。
・御物袋(茶入を入れる袋):紫色の縮緬、紐は茶色
・仕覆(袋):4つ
笹蔓模様の繻子(裏は海気、紐は紫色)
木綿広東織(裏は海気、紐は紫色)
萌黄獅子模様の繻子(裏は海気、紐は紫色)
卍字模様の繻子(裏は海気、紐は遠州茶色)
この外にほどいた状態の袋が4つあります。
・袋箱:白木の桐製
「木下 丸壺」「袋」と記載
・挽家(ひきや:茶入を収める筒):黒塗り、中継の面取り
蓋に金粉の書き付け「木下」
袋はいちご裂(裏は五色縞、紐は遠州茶色)
・箱:白木の桐製
「木下 丸壺」 小堀十左衛門の書き付けあり
・添え盆
・添え盆の箱:堆朱で端に彫りがあり、内側は赤、底は黒。楊茂(中国の漆工)作
表「内赤盆 楊茂造」 裏「楊茂作」

・添え書き付け:3通
「木下の茶入は、もと加賀(石川県)の宮越某が所持し、それから菊羅屋の手に渡りました。去る40年前、谷松屋が金40両で引き取ったとのことです。本家の木下は焼失してこれだけとなり、似たような品は随分ありますが、これほどのものは他にないだろうとのことです。」
「木下切(裂)の片身と和久田切の抜粋、長楽寺こま袋(の布地)」
「木下家に瀬戸の丸壺が二つあり、小堀遠州が強く所望して買い受けたとのことですが、右は『相坂丸壺』のことです。宗中が相坂を先年、不昧殿が拝見を希望されたので手に入るはずでしたが、止められました。後日、宗長に話したところによると、相坂を拝見し、手に入る状況であったが、どうにも良さが分からなかったそうです。あれほど遠州が秘蔵した品であるのに、自分には見所が分からなかったためか、石黒丸壺の方が優れているのではないかと思い、ひとまず購入を止めたとのこと。その後、石黒丸壺を拝見したところ、石黒よりはるかに相坂の方が優れていました。しかし、どうしても相坂があれほど遠州に秘蔵された理由が分からなかった、と話されました。この宗長の話しを宗中にしたところ、もともと木下家に二つあったものを、一つは遠州が強く望んでもらい受けたため、おそらくは二番目に良い方を木下家から送ったのだろう、だから相坂よりも木下丸壺の方が優れているだろう、と宗中は申しておりました。」

雑記
木下丸壺。土屋相州(土屋相模守)所持。高さ約6.48cm(2寸1分4厘)、胴径約6.67cm(2寸2分)、口径約3.09cm(1寸2厘)、底径約3.03cm(1寸)。蓋1枚、袋4つ(笹蔓緞子・裏は海気・紐は紫色、木綿広東・同上、萌黄獅子緞子・同上、万字緞子・紐は遠州茶色)。挽家は黒塗りの中継(なかつぎ)で面取り、金粉で「木下」と書き付け。袋はいちご裂(裏は五色縞、紐は遠州茶色)。箱は白木の桐製。(茶入の図あり)
(『名物記』より)

木下丸壺 中国製(寸法や附属品の記述は名物記と同じ)
(『古今名物類聚拾遺之部』より)

木下丸壺(古瀬戸の部に入っている)。口径約3.03cm(1寸)、高さ約6.51cm(2寸1分半)、胴径約6.67cm(2寸2分)、底径約4.55cm(1寸半)。袋は木綿広東織、菱卍字の繻子、笹蔓と獅子の緞子。挽家は黒塗り、箱は桐製、小堀十左衛門の袋はまかい織。蓋は7枚(休味作1枚、立佐作1枚、相坂写し5枚)、重さ20匁6分。(茶入の図あり)
(『麟鳳亀龍』より)

木下丸壺 中国製、瀬戸釉が見事。
(幕庵文庫甲第九号より)

木下丸壺 中国製。蓋7枚(休味作1枚、立佐作1枚、相坂写し5枚)、袋4つ(菱万字緞子、木綿広東織、笹蔓緞子、萌黄獅子紋緞子)。挽家は黒塗りで袋はまかい織、上箱は桐製で小堀備中守殿(遠州)の書き付け。
(『土屋蔵帳』より)

享保10年(1725年)巳年 2月20日 相州土屋相模守直寿公の茶会
客:古筆、谷村、野村
・掛物:一休宗純の一行書
・茶入:木下丸壺(小堀遠州所持のもの)
盆:堆朱、張成作、栄川東房
・茶碗:瀬戸焼(小堀遠州所持のもの)
・茶入:銅製、薄板の丸
(木全宗儀氏本『茶会道具附』より)

伝来
もとは木下長嘯子(勝俊)が所持しており、その後も同家(木下家)に伝わっていました。小堀遠州がこれを強く望みましたが、当時木下家には丸壺の茶入が二つあり、この「木下丸壺」は与えずに、もう一つの「相坂丸壺」を譲ったと言われています。そして、この「木下丸壺」はその後、土屋相模守に伝わり、土屋家の道具が売却された際に若狭国(福井県)の酒井家の所有となりました。

実見記(実際に見た記録)
大正8年(1919年)4月28日、東京市牛込区矢来町の酒井忠道伯爵邸において実際に拝見しました。
中国製の丸壺であり、紫色の釉薬が美しく映え、黒い釉薬の光沢は物を映し出す(鑑す)ほどです。一面の景色(模様)がはっきりと見え、その綺麗さは言葉では言い表せないほどで、全体に一点の傷も見当たりません。甑(首)の際に黒く沈んだ筋が一本回り、置形(正面)の模様は幅が広いですが、裾の近くに至って細い一筋の流れとなり、その先端は盆に接する際まで達して止まっています。黒い釉薬が幾重にも重なるように掛かり、景色が非常に美しいです。
胴には茶入の半分強を回る黒い筋があり、裾から下は朱泥色(赤茶色)の土を見せており、釉薬と土の境目に一点、少し小高く煎餅のように膨らんだ箇所があります。また、鮮明な糸切りの中に小さなヒッツキ(窯くっつき)の跡が数々あります。
口の作りは捻り返し(反り)が浅い方で、形状の優美さ、釉薬の色の鮮やかさは言葉では言い表せず、その完全無欠な状態に至っては、中国製の丸壺の中でも稀に見る逸品です。

【原文】

木下丸壺

唐物 中興名物 伯爵 酒井忠道氏 藏

名稱
木下勝俊の所持せし丸壺なれば此名ありといふ。勝俊は太閤の室北政所の兄杉原家定の子なり、幼より秀吉に仕へ、長じて播州龍野の城主となり、後若狹に移り九万石を領す、慶長五年家康の東征するや、伏見城を守る、戰終りて後所領を棄て東山に隱れ、晩年西山に移る、長嘯子又天哉翁と號し、和歌を嗜み風月を友とし、慶安二年六月十五日卒す、年八十一。歌集を擧白集と云ふ。長嘯子なくして嗣絶え、其弟利房備中足守二万五千石を領し、今の子爵木下利玄氏の祖たり、利房の弟延俊は豐後日出二万五千石を領して、今の子爵木下俊哲氏の祖たり、之を木下の二家と爲す。

寸法
高 貳寸貳分四厘
胴徑 貳寸貳分
口徑 壹寸貳厘
底徑 壹寸
重量 貳拾貳匁四分

附属物
一 蓋 一枚 窠なし。
(備考)土屋藏帳に蓋七枚、内休味作一枚、立佐作一枚、相坂丸壺蓋寫五枚とあれど、今は唯一枚あるのみ。
一 御物袋 紫縮緬 緒つがり茶
一 袋 四ッ
笹蔓純子 裏海氣 緒つがり紫
木綿廣東 裏海氣 緒つがり紫
萌黄獅子純子 裏海氣 緒つがり紫
卍字純子 裏海氣 緒つがり遠州茶
外に解袋 四ッあり
一 袋箱 桐 白木

一 挽家 黒塗 中繼面取
木下 蓋書付金粉
袋 いちご切 裏五色縞 緒つがり遠州茶
一 箱 桐 白木
木下 丸壺 書付小堀十左衞門
一 添盆
一 添盆箱 堆朱端彫 内赤底黒 楊茂作
表 内赤盆 楊茂造 裏 楊茂作
一 添書付 三通
木下、元加賀之宮越何某、夫より菊羅屋に有之、去四十年前、谷松屋金四十兩にて取入候由、本家の木下は燒失して無是、類物は隨分有之候得共、此位のは有兼候由。
木下切片身和久田切拔
長樂寺こま袋
木下家に瀬戸丸壺二つ所持有之を、遠州達て所望にて可買請候由、右は相坂丸壺之由、宗中相坂を先年不昧殿一覽望に候はゞ手に入可申處、止められ候、後日宗長に咄には、相坂被見候に、手にも入申儀之處、何分にも分かね、あれ程に遠州秘藏之品の處何分にも此方には不得見故に哉、分兼候故、石黒丸壺之方まさりも可申哉と思ひ、先づ止被申候由、其後石黒を被見候而石黒よりははるかに相坂まさり申候、併何分にも相坂はあれ程に遠州秘藏之儀が分りかね候と咄被申候、宗長右は宗長咄、宗中に致候處、元來木下家に二ッ有之を、一ッ遠州達てももらひ候事故、多分は次の方木下家より遣申べく候故亦相坂よりは木下丸壺まさり可申と、宗中申候事。

雜記
木下丸壺 土屋相州。高さ二寸一分四厘、胴二寸二分、口一寸二厘、底一寸。蓋一枚、袋四ッ、笹つるどんす 裏海氣 緒つがり紫、木綿かんとう 同上、萌黄獅子どんす 同上、万字どんす 緒つがり遠州茶、挽家黒塗、中繼、面取、金粉にて木下と書付、袋いちご切 裏五色縞 緒つがり遠州茶。箱桐白木。(茶入圖あり)
(名物記)

木下丸壺 唐物 (寸法附属物の記事、名物記に同じ)
(古今名物類聚拾遺之部)

木下丸壺 (古瀬戸の部に入る)口一寸高二寸一分半、胴二寸二分、底一寸半。袋木綿かんとう、菱卍字純子、さゝつる獅子どんす。挽家黒塗、箱桐、十左衞門袋まかい織、蓋七枚、休味一、立佐一、相坂五、かけめ二十文目六分。(茶入圖あり)
(麟鳳亀龍)

木下丸壺 からもの、瀬戸藥見事。
(幕庵文庫甲第九號)

木下丸壺 唐物 蓋七、休味一、立佐一、相坂寫五、袋四ッ、菱万字どんす、木綿かんとう、笹蔓どんす、萌黄獅子紋どんす。挽家黒塗、袋まかい織、上箱桐書付、小堀備中守殿。
(土屋藏帳)

享保十年巳二月廿日 相州土屋相模守直壽公茶會
客 古筆 谷村 野村
一 掛物 一休一行物
一 茶入 木下丸壺 遠州所持
盆 堆朱 張成作 榮川東房
一 茶碗 瀬戸 遠州所持
一 茶入 銅 薄板丸
(木全宗儀氏本茶會道具附)

傳來
元木下長嘯子所持にして、其後同家に傳はりしを、小堀遠州懇望せしが、當時丸壺の茶入二ッありしを以て、木下を與へず、他の相坂丸壺を讓りたりといふ。而して此木下丸壺は、其後土屋相模守に傳はり、土屋家道具賣拂の際、若州酒井家の有と爲れり。

實見記
大正八年四月二十八日、東京市牛込區矢來町酒井忠道伯邸に於て實見す。
唐物丸壺にして、紫色互え/\しく、黒釉光澤物を鑑すべく、一面の景色判然として其綺麗さ言はん方なく、全部一點の疵を見ず、甑際に黒沈筋一本を繞らし、置形模様幅廣けれども、裾近くに至りて細き一筋ナダレとなり、露先盆付に至りて止まる、黒釉八重襷の如く掛りて、景色麗しく、胴に茶入半分強の黒筋を繞らし、裾以下朱泥色土を見せて、土際に一點小高き煎餅膨れあり、又鮮明なる糸切内に小さきヒッツキ數々あり、口作捻り返し淺き方にて形状の優美、釉色の鮮麗、言語に絶し、其完全無缺に至りては、唐物丸壺中稀に見る所なり。

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