








在中庵(ざいちゅうあん)
古瀬戸 中興名物 別名:道休肩衝(どうきゅうかたつき)
男爵・藤田平太郎氏 所蔵
名称
『櫻山一有筆記』には、「遠州が堺の『在中庵』という場所で、確かな目利きによって見出してきた、並ぶもののない素晴らしい茶入である。末代まで家の宝とすべきものだ」とあります。また同書には「在中庵という寺にあったこと、または道休という人物から伝わったことから、道休とも呼ばれる」ともあります。『松屋筆記』には「在中庵は堺にあり、道休が住職をしていた寺である。道休は堺の人で、金森出雲守と同道して久野家へ茶湯に赴いたのを、久重も覚えている」とあります。『宗友記』にも「在中庵は和泉国堺に住む道休という者の庵の号(名前)であり、その庵号にちなんで小堀遠州(宗甫)公が茶入の名とした。お茶湯の記録にある『道休』とは、まさにこの名器のことである」と記されています。『雪間草茶道惑解』には「在中庵は今も小堀家にあり、昔、道休という人が所持していたため道休ともいう。在中庵とは庵の号である。清水という意味の林寺の前の持ち主とも言われ、天下第一の茶入と古くから言い伝えられている」とあります。『遠宗拾遺』巻五には「在中庵古瀬戸肩衝は、在中庵という坊舎から出たものである。幸いにも『在中』という二字が聖人の足跡を連想させるため、銘とされた。この茶入は、小堀遠州が堺の在中庵にあるのを見出し、たまたま『在中』の二字が論語の『水を飲み、腕を曲げて枕とする、楽しみもまたその中にあり』という一節にぴったり合うことを喜んで、庵号をそのままこの茶入の名前としたのである」と記されています。
寸法(センチ換算)
高さ:約9.6 cm
胴径:約6.4 cm
口径:約3.0 cm
底径:約3.0 cm
甑(こしき)の高さ:約0.7 cm
重量:約128.3 g強
附属物
・仕覆(お仕覆)の蓋:8枚
・蓋の箱:桐製、白木(小堀遠州の書き付けあり)
・御物袋(おものぶくろ):8つ
(鶏頭大燈古金襴、薄柿輪違鳥紋金襴、白花兎地紋繻子、丹地鶏頭唐地金襴、広東織留、萌黄蝶細蔓金襴、黄地段織モール、色糸入地萌黄撫子金襴など、それぞれ裏地や紐の仕様が細かく指定されています)
・袋の箱:桐製、白木(小堀遠州の書き付けあり)
・挽家(ひきや・茶入の木製外容器):竹中次(外側に轆轤目があり、春慶塗)
挽家袋:柿地十字桐文錦
・内箱:桐製、白木(江月宗玩などの書き付けあり)
・添盆:唐物黒縁屈輪(ぐり)四方盆(約19.7cm四方、底は約16.7cm四方)
盆の箱:桐製、白木(小堀遠州の書き付けあり)
・添え巻物:1軸
巻物袋:菊唐草青地繻子
(小堀遠州から水野兵九郎への手紙・大意)
「二度も火災に遭った上での借金の件、財産を質に入れたからといって、少しも恥じることはありません。世間もみな事情は分かっています。昨日、あなたがのんびりされていると聞いて安心いたしました。そのとき預かった香合は、他の方に見せましたが、形が気に入らないとのことで返されてしまいましたので、お返しします。代わりに何か良いものがあれば、また後日お贈りします。長崎から届いた道具をぜひ見たいものです。
一昨日に言い忘れたことですが、私が所持している『在中庵の茶入』を質屋に預けて、金子七千両を借りたという噂を京都に流しておきました。今後、そのような話を聞くことがあれば、必ずその通りのこと(質に入っているということ)として話を合わせておいてください。私が生きている間は、この茶入を手放すことは絶対にありません。今は格別に内情(カモフラージュの策略)を変えておりますので、あらかじめ内情をお知らせしておきます」
伝来・エピソード
小堀遠州の孫にあたる小堀政方が大坂城番をしていた際、一人の芸妓に溺れて公務を怠り、ある朝、朝帰りをしたことでその事実が完全に露見しそうになりました。家臣たちはこれを深く憂慮し、同僚に賄賂を贈ってその過ちを隠蔽しようと計画しました。
小堀家には古くから「在中庵」と呼ばれる天下の名物の茶壺(あるいは茶入)が家宝として蔵されていました。これはかつて足利義政が明国から手に入れたもので、巡り巡って政方に伝わり、伝家の最重要の宝物として大切にされてきたものでした。
家臣たちは秘密裏にこの宝物を千金(多額の金)で質に入れ、事件を揉み消すための多大な資金としました。これにより、一時は事態を隠蔽することに成功しました。
しかしある日、政方は公務のために京都所司代の久世出雲守(久世広明)と面会した際、話の流れで「在中庵の茶壺」の話題になりました。出雲守から「ぜひ一度拝見したい」と請われ、政方は愕然とします(すでに質に入っているため手元にないからです)。
帰宅した政方は近臣たちに相談しますが、みな驚くばかりで名案が浮かびません。そこに政方の側室である半井氏芳子(なからいうじ よしこ)がこの話を聞き、近臣の宮川某(荘太夫)を招いて落ち着いてこう言いました。
「すぐに人を大坂に派遣して、お金を払ってあの茶壺を買い戻し、所司代様の求めに応じればよいだけです。千金ほどのお金は、領内の富裕な商人たちに課税して集めればよいでしょう。商人たちへの返済の方法は、後日ゆっくり話し合えばよいのです。事は本来簡単なことですから、そんなに悩む必要はありません」
荘太夫は大いに喜び、すぐに政方にこれを報告しました。政方はこの策に従い、即日伏見の富商27人を召集して事情を伝え、わずか一朝(一瞬)にして千金を用意して茶壺を買い戻すことができました。政方は大いに喜びました。
この芳子という女性は、江戸の医師である半井立仙の娘で、才能と美貌を兼ね備え、和歌や俳諧にも優れた人物でした。しかし元々は自由奔放な性格で、幼い頃は好き勝手に遊び回っていたため、実の父母からも見放されるような状態でした。しかし政方が江戸にいた際、偶然道で見かけてその美しさに惚れ込み、召し出して側室としたのでした。今回、彼女の機転の利いた画期的な策を用いたことで、容易に千金を得て宝物を買い戻し、所司代に披露することができ、幸いにも何事もなく無事に一件落着させることができたのです。
この「在中庵」は、小堀遠州が所持した茶入の中でも最高峰の秘蔵品であり、遠州の蔵帳(コレクション目録)では茶入の部の筆頭(第1位)に掲載され、松平乗邑の名物記でも巻頭第一に掲載されています。遠州が命ある限りこれを愛し、手放さなかったことは前述の手紙からも明らかです。また、遠州の茶会記(百会記など)を見ても、この茶入が最も多く使用されており、どれほど深く愛玩されていたかが分かります。特に寛永13年5月21日、品川の新敷寄屋に徳川家光将軍がお成りになった際にも、この茶入が飾られており、名実ともに小堀遠州所持の茶入の随一であったことは言うまでもありません。
その後、維新を経て、明治初年に渡辺千秋氏が小堀家から主要な道具(二つの長持に収められた道具類)を2000円で譲り受けました。渡辺氏の没後、明治25年に星ヶ岡茶寮にてその一部が売りに出されましたが、この「在中庵」を含む主要な十数点は、渡辺氏の未亡人から直接、藤田男爵家(藤田平太郎)へと譲られることになりました。
実見記(大正9年の調査記録)
大正9年5月17日、大阪市北区網島の藤田平太郎男爵邸にて実際にこの目で鑑賞した。
口の作りは玉縁で、粘り返しは浅い。甑(こしき)の下は張っており、肩衝(かたつき)としてはなだらかな「撫で肩」の形状をしている。胴体の轆轤目(ろくろめ)はやや荒く回り、裾から下は朱泥色の土(素地)が見えている。糸切(底の模様)は極めて細かく、半分は釉薬が欠けており、半分は半月状の縁がある。糸切の起点には柿色の釉薬が飛び、底の内部には小さな孔が一つ、同じく黒い釉薬が一点飛んでいる。
全体としては紫がかった地色の上に、極めて艶やかで美しい黒釉が乗っている。釉薬は鶉(うずら)の斑点のような模様を成し、黒い筋が胴の一部を巻いている。お盆に接する「飯まわり」の部分には黒釉がべっとりと掛かっている箇所がある。釉薬のなだれ(垂れ)は胴の部分で最も幅広く、裾に向かって徐々に狭まり、土の手前でピタリと止まっている。
内部の口縁にも釉薬が掛かっており、それより下の轆轤底の近くに至るまでの削り込みの素晴らしさは言語に絶する。遠州が特にこの茶入を珍重したのも、まさにこの見事な作りのためであろう。
肩のあたりに少し擦れた跡があるものの、見事な黒釉は光沢が非常に良く、類い稀なる名品である。その釉質の素晴らしさはほとんど類を見ず、また糸切の細かさなど古風で雅な趣に富んでいる。これを「古瀬戸茶入の中の最高傑作(白眉)」と称することは、決して過言ではない。
【原文】
在中庵
古瀬戸 中興名物 一名 道休肩衝 男爵 藤田平太郎氏蔵
名称
櫻山一有筆記に遠州堺の在中庵といへるに在之目利にて取出出したまふ、並べて二つともなき茶入なりとて、末代家の寳ならんこそあり、又、同書に「在中庵といふ寺にありより、道休といふ人より来るゆる、道休ともいふ」とあり。松屋筆記に「在中庵は堺にて、道休住寺なり、道休は堺の人なり、金森出雲守と道休同道にて、久野方へ茶湯へ来るを、久重も覺候也」とあり。宗友記にも「在中庵は泉州堺に住む道休といふものゝ庵號なり、庵號を以て宗甫公茶入の名に被稱之、御茶湯置合に道休と有之は、即ち此名器のことなり」と記せり。雪間草茶道惑解には「在中庵小堀家に今に在之、昔道休といふ人所持故道休とも云ふ、在中庵則ち庵の號也、清水の意味林寺前の持主ともいふ、天下第一と古人云傳」と記せり。遠宗拾遺巻五に「在中庵古瀬戸肩衝、在中庵と云ふ坊舎より出づ、幸に在中の二字聖蹟を含めれば依て銘とせし玉ふことあり、左れば此茶入は小堀遠州堺の在中庵にありしを見出し、偶ま在中の二字が論語の『飮水曲肱而枕之樂在其中』といふに該當するを悦び、庵號を其儘此茶入の名とは爲しけるなり」。
寸法
高 參寸壹分七厘
胴徑 貳寸壹分
口徑 壹寸
底徑 壹寸
甑高 貳分貳厘
重量 參拾四匁貳分強
附属物
一 蓋 八枚
一 蓋箱 桐 白木(書付遠州)
一 御物袋 八ッ
・鶏頭大燈古金襴(裏かいいき、緒つがり紫)
・薄柿輪違鳥紋金襴(裏海気、織留、緒つがり薄紫)
・白花兎地紋繻子(裏かいいき、緒つがり薄紫)
・丹地鶏頭唐地金襴(裏かべちょろ、緒つがり紫)
・廣東織留(裏かべちょろ、緒つがり藤色)
・萠黃蝶細蔓金襴(裏玉虫かいいき、緒つがり濃茶)
・黃地段織もうる(裏玉虫かいいき、緒つがり萠黄)
・色糸入地萠黃撫子金襴(裏茶地かべちょろ、緒つがり藤色)
一 袋箱 桐 白木(武箇、書付各遠州)
一 挽家 竹中次(外轆轤目、春慶塗)
袋 柿地笹桐之紋錦(裏縹海気、緒つがり紫)
一 内箱 桐 白木(書付江月、両筆)
一 添盆 唐物黒縁屈輪四方盆(方六寸五分、底方五寸五分)
箱 桐 白木(書付遠州)
一 添巻物 一軸
袋 菊唐草青地繻子(裏かいいき、緒つがり浅黄)
(遠州花押の添状(一部抜粋))
返すも兩度類火の上きんにては、玄ち物出し候とて、すこしもはづかしき事は無之候、世間も其通に存候、かしく。
昨日はゆるゝと申承候て、珍重に存候、其節留置候香合さきへ見せ候へども、なり氣に入不申由にて、返し被申候にて、もたせ御越し候、うけ取被申候、我等何ぞかへ物に成ども、重而可致と存候、長崎より下候道具見申度候。
一昨日にそこ申候、我等所持申候在中庵ノ茶入、玄ち物に入預け候て、金子七千兩かり申由、京都へ申遣候間、ゆく/\はなし候など、有之候はば、必らず右之通にて其心得可給候、我等命の間は、はなし不申候、唯今は事の外内そうをがはり候間、内證しらせ候て置申候、かしこ。
三月二日(遠州花押)水野兵九郎殿
雑記
一 在中庵棚(桑製、黒柿寄木細工あり、指物師吉兵衛作)
一 在中庵笈櫃(總黒革袋 一箇)
在中庵 重代道具第一、永く秘藏致すべき道具之留。瀬戸肩衝、江月月、在中庵、宗甫正、味掛目三十四文、目高(高さ)三寸一分、巻六寸六分五厘、但し帯の所迄返し、巻三寸二分。御物袋の重さ二文目七分。古竹挽家の重さ三十四文目一分、替挽家色々、わん箱高さ五寸、同差渡三寸六分二厘、四方。但し合口の所にて、重さ八十文目。袋八ッ、二箱、宗甫書付。鶏頭切、重さ三文目四分。鳥紋金襴、裏かいいき、なりきり二百両計もする、作土花きりむ、重さ三文目、大燈切、重さ二文目。紋古金襴、重さ三文目。もふる、重さ二文目五分。かむどう織留、重さ二文目。文梅の紋、替ふた六枚。棚四本足、からくわ黒がき、盆ぐり/\四方。
傳來
是より先、政方の大阪城番たるや、一遊妓を娶り、遊蕩職を怠る。一夕、曉を徹して還らず、事頗る露はる。家臣某等之を憂へ、竊に同僚に賂ひ、以て其過を掩はんと謀る、小堀家舊に一茶壺を藏す、在中庵と名づく。足利義政曾て之を明國に獲るものなり、後傳へて政に到る、政一政愛翫して傳家の重寶となす。家臣等密に之を千金に典し、以て貲百の資となす。事乃ち掩ふことを得たり。是に至り政方一日公務を以て京都所司代久世出雲守に見え、話次、在中庵の茶壺に及ぶ、出雲守一覽せんことを請ふ、政方愕然たり、歸りて之を近臣に謀る、近臣皆驚き爲す所を知らず、政方の妾半井氏芳子之を聞き、近臣宮川某太夫を招き、從容之に謂て曰く、宜しく急に人を大阪に遣はして之を購ひ還り、以て出雲守の需に應ずべきのみ、千金の如きは之を部内の富民に課すべし、還償の法は他日を待て之を議せん、事固より容易なるのみ何ぞ必ずしも苦慮せんや、と。
荘太夫大に悦び、直に政方に告ぐ、政方之に従ひ、即日伏見の富商二十七人を召して其旨を傳へ、一朝にして千金を辨ず、政方大に悦ぶ。
芳子は江戸の醫半井立仙の女なり、才姿あり、最も和歌俳諧を善くす、而れども性固より浮靡、幼時意に任せて遊行し、父母之を子として視ざるなり、政方賞して江戸に在り、偶々芳子を途上に視、その美色を悅び、召して侍妾となす、此度其策を用ひ容易に千金を得て茶壺を購ひ、以て所司代の觀に供せしかば、幸に事無くして止む事を得たり。
此茶入は小堀遠州所持の茶入中、最秘藏のものにして、遠州藏帳には茶入の部の首位に載せられ、松平乘邑の名物記にも開巻第一に之を載す。而して遠州が命のあらん限り之を愛惜せしことは、前掲遠州の文に詳かなり。而して遠州百會記、其他他遠州の茶會に此茶入を使用せること、最も多きを以て、其愛玩の如何に深かりしやを知るに足らん。殊に寛永十三年五月二十一日、品川新敷寄屋に家光將軍御成の節、此茶入を飾りたるを見れば、在中庵が遠州所持茶入の随一たりしや、固より多言を待たざるなり。
而して遠州の齎政、遠州の備中守、後に至り、放縦にして酒色に耽り、爲に在中庵茶入を大阪の商人に典物となしけるを、偶京都所司代久世出雲守廣明に際し、大に當惑せしが、妾半井芳子の献策を用ひ伏見の富商に賦課して千金を調へ、漸く之を質受けして久世所司代に示すことを得たりと云ふ。凡そ遠州傳來道具は、伏見に於て小堀塚家開所、後久しく幕府に預り置かれしが、小堀宗中同家再興の節、其儘還付せられしを以て、維新後まで依然同家に傳はりしに、明治初年、渡邊千秋氏其主要なる二長持の道具を金貳千圓にて譲り受け、其後生前屡々茶事に使用せられしが、曠氏歿後、明治二十五年星ヶ岡茶寮に於て其一部を賣拂ひ、残りの一部在中庵及び野中茶入其他十數點は、渡邊未亡人より直接藤田男爵家に譲られけり。
實見記
大正九年五月十七日、大阪市北區網島藤田平太郎男爵邸に於て實見す。
口作玉縁、粘り返し淺く、甑下張り、肩衝としては撫で肩の方にて、胴體、轆轤目稍荒く繞り、裾以下朱泥色の土を見せ、糸切極めて細かく、半分は釉欠け、半分は半月状の縁あり、糸切起點に柿色の釉飛び、又底内に小孔一つ同じく黒き釉飛び一点あり、總體紫地色の上に、光澤極めて麗しき黒、釉鶉斑を成し、黒筋胴一部を繞り、飯廻りに於て黒釉べっとり掛けたる處あり、置形黒釉ナダレ、胴に於て最も幅廣く、裾より漸く狭まりて、土際に至りて止まる。内部口縁釉掛り、以下轆轤底近くに至りてキリく事、言語に絶し、遠州の特に此茶入を珍重したるも亦これが爲めなるべし。肩廻りに於て少しく手摺れたる所あれど、美事なる黒釉は、光澤能く、るも無類にして、其釉質の結構なる、殆んど其類を見ず、又糸切の細かなる古雅の味ひに富みたる、之を古瀬戸茶入中の白眉と稱するも、決して過褒に非ざる可きなり。


