安国寺肩衝 あんこくじかたつき

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鶴田 純久の章 お話

大名物。
漢作肩衝茶入。
初め有明肩衝と呼ばれ豊臣秀吉の秘蔵品でありましたが、細川三斎が拝領しました。
しかし三斎は財政困難のためこれを手離し、安国寺恵慶が所持して安国寺肩衝と呼ばれるようになりました。
関ヶ原の役のあと恵慶は京都の四条河原で処刑され、この茶入は合戦前の約束によって徳川家康から津田小平次秀政に賜わられました。
ある時津田の茶会に招かれた三斎は久し振りにこの茶入に出会って愛惜の念を押さえることができず、主人が水屋に立った隙を窺ってひそかにこれを懐に入れ、「年たけて叉こゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」の西行法師の歌を主人への伝言に残して辞去しました。
三斎の胸中はまさにこの歌の心でありました。
そのためこの茶入には中山肩衝の別名があります。
三斎は帰宅後使いを遣り、黄金二百枚に時服一領並びに酒肴を添えて無礼を詫び改めて譲渡を願いました。
津田はその熱意に感じてこれを譲ることにしたが黄金を受け取ることは承知せず、結局三斎は一寺を建立しました。
1627年(寛永四)領国豊前国(福岡県)小倉の飢饉に際して、細川忠利はこれを黄金千五百枚拓換えそれで飢民を救った。
江戸にいた三斎はこれを聞き「忠利の茶道も上達した」と賞しました。
茶入はその後庄内藩主酒井忠勝の手に入り、1865年(慶応元)になってその子忠当が幕府に献上し、のち上田城主松平伊賀守が拝領しました。
それ以来同家に伝来したが1913年(大正二)の同家の売立の際、益田紅艶に落札しました。
当時ほとんど裸のままで出ていたため注目を惹かず、わずか八百円であったといいます。
黒飴色釉の中に白鼠色の斑紋が一面にあるのがこの茶入の特色であります。
(『細川三斎年譜』『東照宮御実記付録』『茶湯古事談』『茶事秘録』『武家七徳』『大正名器鑑』)

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