瑞芝焼 ずいしやき

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鶴田 純久の章 お話

現在の和歌山市鈴丸丁(俗称滅法谷)の産。
鈴丸焼・滅法谷焼・名草焼・紀城焼・和歌山焼などの別名があります。
1801年(享和元)同地の豪家岡崎屋阪上重次郎の創業で、二代重次郎の1874年(明治七)まで継続し(1869、明治二年から翌年までは藩の開物局の支配)、その後もと係り役人であった北林藤三郎が約一ヵ年経営し1875年に廃窯となりました。
期間は通じて七十四、五年にわたります。
この名のゆえんは藩主治宝から与えられた瑞芝堂の書額によるものであります。
また窯主阪上重次郎も瑞芝と号しました。
早くから藩の保護を受け、治宝はしばしばここを訪れたといいます。
一条忠良を通じて茶匠花月庵が治宝に招かれますと、名工木米も共に来て1801年以来たびたびこの窯に従事しました。
古器観または停雲楼の印判はその下賜品であるといいます。
常傭の陶工は二、三十人で、文政(1818-30)頃欽古・康之助・吉兵衛ら名のある工人がいたといいます。
また明治時代には京工音羽屋勘兵衛・亀寿・丹山六郎らが従業しました。
創窯当時は粗造の植木鉢などもつくられましたが、その全盛期である文化・文政(1804-30)から幕末頃までは主として大型物または精巧な製作となり、そのうち最もすぐれたものは青磁器でありました。
伝によれば木米の法を得たものとい7う。
また磁器の作品中文房具・花生・白泥の湯沸48し・俎炉などは木米作に近似し、その遺風を残しています。
陶製品には煎抹茶器・会席用品など上好のものがあるようで、ほかに日用雑器を焼出しました。
ただしこの窯においては染付物が非常に少なく、ただ1869、七〇年(明治二、三)頃に一時伊万里から原石を送らせて製作しました。
「和歌山」「南紀」の書銘のあるものに多いようです。
この窯で用いられた銘は多種あります。
「名草」「名卿」「鈴丸」「陶器師鈴丸十次郎」「南紀瑞芝堂製」「瑞芝」「白烏関(三字不明)」「化物堂」「紀城化物堂製」「紀城之産」「紀城之製」「紀城」「和歌山」「南紀」「南紀製之」などであります。
(『本朝陶器孜証』『観古図説』『日本陶器目録』『陶器類集』『日本近世窯業史』『茶わん』四八)

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