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鶴田 純久の章 お話

もと出雲国(島根県)母里藩士隅田弥一兵衛、仙亭はその号。
1820年(文政三)2月生まれ。
天性俊敏で非常に手工に長じていました。
十五歳の頃藩内に起きた贋札事件に関し嫌疑を受けて江戸に出奔、のち許しを得て母里(安来市伯太町母里)に帰住(あるいは明治維新に鎮撫使として出雲国に入った西園寺公望の随員であったともいう)。
その後鉱山採掘を首唱し、国内をあまねく皺渉して鉱山を経営しましたが、所期の通りにならず破産に瀕しました。
そこで1877年(明治一〇)陶業を開始して神楽崎焼と称し、その多芸多能な才によって特色ある器を出して賞賛されました。
1889年(同二二)3月25日没、七十歳。
その晩年には多く茶器・花瓶・人物像などを出しました。
(『出雲陶窯』)※かぐらざきやき

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