薩摩焼殿窯の一つ。
その伝系には四度の変遷があります。
すなわち斉彬御庭焼(集成館、錦谷窯場)、仙巌焼(忠義-御庭焼研究所)、新御庭焼(忠重)、磯焼(市来窯)であります。
島津斉彬は富国策によって1853年(嘉永六)現在の鹿児島市吉野町の磯別邸内に集成館を創設しあらゆる事業の試験改良を図った時、陶器の釉法などの改善と磁器の創製を計画、1855年(安政二)6月苗代川の錦手方主取朴正官を招いて指揮に当たらせ、同時に自分の発明も加えて各種の陶磁器を製造させました。
さらに斉彬は猫神祠の付近に錦谷窯場を設け自分で土を握ねて楽しみとしました。
臼砲の弾丸に似せて茶碗をつくり狂歌を箱書したことは有名であります。
その間に鍋島藩とイス灰交渉をし、また着々と薩摩陶磁に新計画を盛り込んだが、1859年(安政六)に鶴巻城で没しました。
その後忠義の代になって、薩摩焼が粗製に陥ったのを嘆き1895年(明治二八)7月製陶所を磯邸内に建設、陶工に泊七太郎・市来伊太郎・竪山彦四郎・森尾直太郎、画工に郡山嘉納太・有山長太郎・森彦四郎・迫田幸吉らを招いて古薩摩以来の特色を研究し、毎日工場に行っては調土施釉法などの試験をし自ら指揮経営しました。
この時創始されたものに台(代)砂盛・二重嵌入手法があります。
またここを一般に御庭焼研究所と呼びその作品を仙巌焼といきました。
磯別邸の名称の仙巌園に因んだものであります。
1897年(明治三〇)に忠義が没し、1899年(同三二)9月に大暴風があって窯場が破壊し事業は廃止されました。
1907年(同四〇)6月に島津忠重が再び旧集成館内にこれを建設し、陶工の市来伊太郎・市来英吉・末吉眩助、陶画工の黒江菊次郎・迫田幸吉・壱岐武熊らを従業させました。
1915年(大正四)元紡績所跡の北隅に窯を移し、その後釉薬・楢灰などを精選し日を追って良品を製出しましたが、1927年(昭和二)5月事業が閉鎖され、ここに薩摩焼と島津家とのつながりはまったく断絶しました。
しかしその陶工であった市来伊太郎はこれを残念に思い、子の栄吉と共に島津家の許可を得て同年7月集成館南側の地所で開窯、その12月には伊太郎は死去したが栄吉がこの余流を守って事業に精出したといわれています。
(『薩摩焼総鑑』)