今井宗久 いまいそうきゅう

今井宗久 いまいそうきゅう
Picture of 鶴田 純久の章 お話
鶴田 純久の章 お話
今井宗久 いまいそうきゅう
今井宗久 いまいそうきゅう

和泉国(大阪府)堺の茶人、政商。
1520年(永正一七)生まれ。
紹鴎の女婿。
宗及・利休と共に天下三宗匠と呼ばれました。
初名久秀、のち兼員。
彦八郎・彦右衛門と称し、昨夢斎と号しました。
もと近江源氏佐々木氏の後裔。
大和国今井庄(奈良県橿原市)を根拠としていたがのち堺に移り納屋衆の一人となり、鉄砲鋳造、生野銀山経営にも当たりました。
すでに足利義昭に近づきまた松永久秀とも関係を保持していましたが、1568年(永禄一一)信長が京都に入るやただちにこれに参じて名物松島の茶壺を献じ、のち信長と堺の和議成立と共に堺五力庄の代官となり、1570年(元亀元)松井友閑が堺政所に入部するやこれと特に親交を結んです。
1582年(天正一〇)以後は秀吉政権に近づき田地二千二百石の安堵を得、また茶頭の一人として重用されました。
早くから茶を紹鴎に学び、望まれてその女婿となり、紹鴎の没後は嫡子宗瓦の後見人となりましたが、遺産のことで宗瓦と訴訟事件を起こしました。
玉硝波の絵・珠徳茶杓・手灯篭花入・定家色紙・紹鴎茄子茶入・勢高茶入・開山五徳・シメキリ水指・紹鴎火箸などを所持していました。
1593年(文禄二)8月5日没、七十四歳。
【今井宗久茶湯書抜】今井宗久の茶会記。
二巻。
もと十巻あったものを1820年。
(文政三)竹浪休叟か抜粋して二巻としたものであります。
上巻は1554年(天文二三)から1589年(天正一七)に至る自会二十回・他会六十三回が記録され、下巻は1599年(慶長四)から1614年(同一九)の記録。
ほかに天正十二年(1584)大阪城内山里席秀吉様御茶湯次第、天正十三年3月8日於京北野秀吉様御飾次第、8月12日付大主馬宛古田織部茶湯相伝書、天正十三年9月13日寿命院宛拠笙斎宗易茶湯相伝書などを収めています。
この下巻は宗久の子宗薫が記録したものかといわれます。
『茶道古典全集』第十巻収録。
【今井宗薫・宗呑】宗薫は宗久の子。
単丁斎と号しました。
秀吉の御伽衆・茶頭。
関ヶ原役ののちは徳川家康・秀忠・家光に歴仕しました。
1627年(寛永四)4月10日没、七十六歳。
宗呑は宗薫の子。
不尽・茅小斎と号し、父に茶を学んです。
1623年(元和九)4月13日没。

前に戻る
Facebook
Twitter
Email