今村弥次兵衛 いまむらやじべえ

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鶴田 純久の章 お話

肥前国(長崎県)平戸焼の開祖今村三之丞の子、弥次兵衛正名。
号の如猿は1702年(元禄一五)に領主から賜ったものです。
1635年(寛永一二)に生まれ、七歳で祖父巨関の教えを受け、続いて父三之丞のもとで修業。
1658年(万治元)父と別居し、三川内字潜石(佐世保市三川内)で製陶。
1662年(寛文二)従来の磁質が今もって精良でないのを知って、天草に原料を発見して研究を重ね、ついに純白の逸品を製出しました。
また次郎兵衛と変名して天草島に渡り、石場の持ち主上田某に面会して取引を約束したといわれます。
1664年(同四)その功績により召し出され知行百石、御馬廻格に昇進、さらに1698年(元禄一一)には山林百町歩(一〇〇ヘクタ一ル)を拝領、1702年(同一五)に号如猿を賜りました。
容貌が猿に似ていたためらしく当時の人は太閤の再来と称しました。
1717年(享保二)3月9日没、八十三歳。
三山を挙げて厚葬したといわれます。
1842年(天保一三)に松浦侯から如猿大明神の称号を追贈され、土地をトして一祠が建てられました。
子孫はみな弥次兵衛を襲名。
(『平戸焼沿革一覧』)※ひらどやき

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