肥前国(長崎県)平戸焼(三川内焼)の開祖。
巨関の子で1610年(慶長一五)生まれ。
三之丞正一と称し、今村の姓は1641年(寛永一八)に領主から賜りました。
1622年(元和八)父と共に折尾瀬村三川内(佐世保市三川内町)に移住し葭の本村(同市木原町)で試窯、1634年(寛永一一)三ッ岳の白磁鉱を発見し唐津椎ノ峯その他の原料を混合して良好な白磁器を出し、さらに青磁器を発明しました。
1637年(同一四)三川内字丸山に転居して字長葉山に陶窯を築いました。
伝によりますと、初め三之丞が平戸に出て諸地を探査するうち、有田南川原に巨関と同郷の熊川の人で竹原道庵の子の五郎七が筑前国(福岡県)から移住して陶業を営んでいるのを知り、白手焼細工を習得するためにその弟子となりました。
しかし五郎七は釉法を秘して伝えないため、その妻に用量の差額を窺わせてようやく自得し、難を恐れて逃亡しました。
その後五郎七が病死したので三之丞は大村領字中尾川内皿山で陶窯を開いました。
しかしのち平戸領主の命があって帰還しここに定住したといいます。
同年三皿山棟梁兼代官に任命され、1641年今村の姓を賜り、1643年(同二〇)領主の許可を受けて字木原山(佐世保市木原町)および江永山(同市江永町)に分工場を設け、小山田佐平・辰次郎を各担当者とし、1667年(寛文七)には唐津椎ノ峯の陶工福本弥次右衛門を招聘しました。
1696年(元禄九)7月9日丸山の隠宅で没、・八十七歳。
(『平戸焼沿革一覧』)※ひらどやき