大名物
高さ:8.5cm
口径:15.3cm
高台外径:5.2cm
同高さ:1.4cm
松永という名称の由来は、判然としません。おそらく松永弾正久秀の所持という伝えによって、その名があるものと思われます。
作ゆきは、総体の大きさに対して、高台がやや低めですが、それは一方に傾いでいた高台を平らにするべく少し磨り上げたためでしょう。もし本来の高さのままであったら、力強くろくろ目のめぐった立ち上がりからしても、よりいっそう重厚感に満ちたものであったろうと思われます。
釉がけは比較的薄く、したがって全体に貫入はやや細かいです。梅花皮(かいらぎ)釉も高台ぎわに少しあらわれていますが、高台内は静かです。
外側の枇杷色釉はやや灰色をおびて、がちらかといえば渋い色感のものといえますが、口辺の一部に吹墨状のしみが現れて景色をなしています。
内部見込みは、中央で少しくぼみ、そこに大小の目あとが四ヵ所に残っています。内部の釉も灰色をおびて渋い色調ですが、そうしたなかにねずみ色のしみが散在して景をなしています。
高台ぎわから口にかけての立ち上がりは、いささかやせてはいるが細川に似て、ゆったりした碗形の広がりをみせています。
総体の趣は、かなり大振りの茶碗でありながら、力感を誇るといったものではなく、うちに力をひそめた重厚な作ゆきのものといえましょう。
「元禄四歳正月吉日」の記載のある鴻池家の道具帳の茶碗覚え中に、「一 松永井戸 代金百五両 小堀遠江守様御所持」とあるところをみますと、かつて小堀遠州が所持していたことが知られます。『大正名器鑑』では「伝来審かならず」として、箱表の筆者も不明としていますが、遠州所持であったことからしますと、箱の筆者は、書体からしても小堀遠州ではなかったでしょうか。
外箱は、仭翁すなわち万仭道坦和尚の筆ですが、鴻池家の蔵品には万報が極書をしたものがかなりあり、おそらく元文元年に没した有名な鴻池道億の時代に、万仭に極書をさせたものではないでしょうか。また前述の道具帳も、道億時代のものと推測されます。
天明七年に著された『古今名物類聚』には、「松永井戸鴻池」とあり、したがってこの茶碗の伝来は、遠州以前は詳でありませんが、遠州所持のあと鴻池家に入り、以来終戦後まで同家に伝わったことはたしかです。
昭和三十九年秋の光悦会に現所持者によって名古屋席で使用されましたが、この茶碗がそうした茶会に用いられたのは、おそらく絶えていなかったことにちがいありません。
(林屋晴三)
松永井戸 まつながいど
大名物。朝鮮茶碗、名物手井戸。
松永弾正久秀所持のものであるだろうかというが不詳。
色は少々白いです。
外部底廻りのかいらぎが見事であります。
万治(1658-61)以前から鴻池家所蔵であるがそれ以前の伝来は不詳。
(『古今名物類聚』『大正名器鑑』)