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鶴田 純久の章 お話

高さ:8.3~9.0cm
口径:12.0~13.3cm
高台外径:5.2~5.5cm
同高さ:0.5cm

 無銘の茶碗ですが、光悦の黒茶碗という意から、「光悦黒」とでも称しておきましょう。現在のところ、伝来もほとんど不詳ですが、従来知られなかった光悦茶碗の中では、かなり出色であることから、本書に所載されたものです。
 茶碗の形姿は、光悦独特の、腰の稜線のきっかりとした、加賀光悦・七里などと一連共通の作ゆきの茶碗ですが、加賀光悦のように縦箆の豊かなものではなく、七里と最も類似した作調です。ほとんど垂直に削り出された高台は、やや低く、高台ぎわから腰にかけては、少し上がっていますが、その面の削りは、いたって平らです。腰から口にかけては、少しふくらみをもちつつ、外に開きながら立ち上がっていますが、この形状は、光悦常套の作ゆきといえましょう。
 見込みの底部は、茶だまりをつくらず、中央でややくぼんではいますが、ほとんど平らに仕上げられており、これまた光悦特有のものといえます。さらに、内底からの立ち上がりは撫で角で、その曲線は七里と全く同様です。
 この無冠の茶碗を、知られたる名碗と同等の格に推挙させるものがあったのは、高台の作ゆきのよさにかかっています。光悦茶碗の鑑識の最大の拠点は、高台の削り出しに示された箆ぐせにあると愚考しますが、この茶碗の高台は、まさしく光悦特有のものがうかがわれ、輪形に無作為に削り出されているにすぎませんが、なかなかの力感がみなぎっています。その作ぶりは、七里よりはやや劣カ、加賀光悦にまさっています。
 総体に雨雲や七里と同様の、ノンコウふうの黒楽釉がかかっていますが、その焼成火度はかなり高く、釉膚につややかな光沢があります。しかし、随所に火間が生じているのも、七里などと共通したところであり、火間の素地膚は、鉄膚を見るような趣です。高台畳つきに、ほぼ五力所目跡が残っているのも、ノンコウ時代までの楽焼き通例のものです。
 光悦茶碗としては、特に傑出したものとはいえませんが、ゆったりとした落ち着きと、大きさのある風格は、なかなかのものといえましょう。
 内箱の蓋裏に「従本阿弥氏当院寄付伝来可為者也 明和初年二月 紫野独庵 識」とあり、独庵という人が、大徳寺のいずれの塔頭の僧であったかは、調査中ですが、これによれば、本阿弥家から明和ごろ、寄進を受けたものであったらしいです。箱の状態、書き付け、ともに素直であるところ、好感がもてますが、寺の什物であったために、付属の次第はいたって質素です。
 また、ちなみに、これときわめて似通った茶碗が、明治ごろ、アメリカに渡ったらしく、フリヤー美術館の蔵品中に見受けられます。
(林屋晴三)

黒茶碗

高さ8.3~9.5cm 口径12.0~13.3cm 高台径5.5cm
 腰にきっかりと稜をつけた半筒形の茶碗で、胴に僅かにふくらみをもたせつつ、口部にかけて開きぎみに立ち上がっている。「七里」や「加賀」などと同形の光悦独特の半筒形茶碗で、ことに関東大震災で欠失した「鉄壁」とはまったく同様の作振りのように思われる。
高台は低く、くっきりと円形に作られ、畳付も平らである。そして高台内の削り込みは「七里」や「加賀光悦」とよく似て、もっとも光悦の手ぐせのよく示されているところである。総体に「雨雲」や「七里」と同質のノンコウ風の黒和がかかっているが、随所に火間が生じて鉄色に焼き上がった土膚を見せている。高台畳付に五つ目跡が残り、見込も「七里」や「雨雲」あるいは「不二山」と同じく、ややまるみをつけつつほぼ平らに作られている。素朴な箱行きの内箱蓋裏に「従本阿弥氏当院寄付伝来可為者也 明和初年二月 紫野独庵識」と書付されているが、独庵は明和頃に徳禅寺に住した僧である。したがって、この茶碗は本阿弥家から徳禅寺に寄進されたものであったと推測される。

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