美濃国土岐郡笠原村(岐阜県多治見市笠原町)の陶窯。
天正(1573-92)から元和(1615-24)の頃大平・大萱(可児郡可児町久々利)から分かれて開窯したもので、その工は源十郎、万右衛門・景輔父子、松原領右衛門らであったといいます。
文化(1804-18)の頃になって初めて太白茶碗を焼きこれより磁器も製しました。
また文久年間(1861I四)松原領衛・柴田善八・同鶴助らがこの陶窯の改良を図り、字中西の地に一窯を築いて五輪窯と名付けました。
このほかに稲荷窯・念仏窯・西窯の三つの古窯があります。
以後業盛んとなり、コ一ヒ一茶碗、普通茶漬け茶碗の類の産地として一時名を知られましたが、1926年(昭和元)頃から山内逸三がテラコッタからヒントを得て窯変モザイクタイルを苦心研究のすえ焼成に成功。
1931年(同六)大阪ガスビルの建築に使用されて以来笠原はモザイクタイルによって名を高めるようになりました。
第二次世界大戦後は急速にモザイクタイルおよびそれに関連する企業が合理化・機械化を進めて、モザイクタイルは全国生産の八〇パ一セントを占めるまでになり、内需はもちろん輸出モザイクタイルの町として現在では近代化された大工場が林立しています。
1970年(昭和四五)度の笠原地区の生産額は総額七四億円で、そのうち食器はわずか三・八億(〇・五パ一セント)にすぎず、すべてモザイクタイルとなり、このうち輸出額は二四・五億(三二・五パ一セント)、内地へ四九・五億(六七・五パ一セント)となっています。