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鶴田 純久の章 お話

明治初年の陶画家。
姓は服部。
椿山派の画工で早くから陶画の改良に志し、1869年(明治二)には鍋島閑叟の命により肥前有田で錦手画法を教授しました。
写生を主として淡彩水墨とも絹紙同様に描き出し、同時に名物裂の模様を応用しました。
1873年(明治六)オーストリア博覧会が催されることになりますと、以前から東京で輸出陶器に色絵を描いていた杏圃は簡抜されて東京下谷(台東区)の官工場を主管し、肥前・尾張などの素磁に色絵を描き、作品を持ってオーストリアに行き、当地で非常な名声を得ました。
のち杏圃は塑像の研究に移り、1881年(同一四)からは陶器をなげうちもっぱらこの仕事に努めたが家産を失い、その後消息不明。

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