九谷永楽 くたにえいらく

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鶴田 純久の章 お話

加賀国江沼郡山代村(石川県加賀市)に来た十二代永楽和全の窯をいいます。
安政・文久(1854-64)の間に山代村の宮本屋窯が廃窯に瀕した時大聖寺藩物産役所は三藤文次郎などにこれを管理させました。
また1866年(慶応二、一説には翌年)京都から和全および義弟の西村宗三郎(回全)を招いました。
和全は初め山代村の春日山に陶窯を築き伊賀・南蛮・朝鮮写しなどの陶器をつくり、「於加陽山代春日山永楽造」「於春日山善五郎造」「於春日山永楽」などと釘彫し、または「永楽」の印を捺しました。
のち同村越中谷窯場に移り磁器を製造。
その作風は京都での和全の作振りと同じで、金欄手・呉須赤・安南・絵高麗・染付などから和全特有の紗文手・黄交趾に至る各種のものを出し、京都と同じく「永楽」および「河浜支流」の刻印を捺しました。
またたいてい「於九谷永楽造」と製品のいずれかに黒で書き、緑色で文字の上をとめています。
さらにまた「和全」を一つに組み花押のように書いたのもあります。
また山代村における箱書の特徴は、善の字の口がほとんど一の字のようになり五の字は不の字に近く、また郎の字はヽを省いて即の字に似たものが多いようです。
明治の改革にあたり1871年(同四年)和全は愛知県岡崎に去りました。
山代窯はその後塚谷浅・大蔵清七の経営となります。
永楽和全が山代窯にいたのはわずか五ヵ年にすぎませんが、九谷焼の素質・形態・修飾の進歩に寄与するところは非常に大きく、その「於九谷永楽造」の銘款は後世加賀各地の陶工の模倣するところとなり、ついに九谷焼という総称を生む機縁となりました。
(『九谷陶磁史』)

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