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鶴田 純久の章 お話

現在の台所用の塩壺は施釉製共蓋の粗陶を常としており、格別に特記すべきことはないようです。
茶の湯の茶碗や水指などに塩笥と称するものがあります。
これはもと朝鮮の塩入れであるといいますが、共蓋のものは見当たらないようです。
江戸時代に和泉国(大阪府)堺付近から壺入りの焼塩すなわち壺塩というものを製造し諸国に売り広めました。
その壺は京阪はもとより江戸・博多などからも出土することから考えて、当時各所に普及していたものと思われます。
壺の形状は大同小異で筒形をしており蓋があります。
高さは8センチから10センチ程、口径は約7.5センチの大きさで、赤粘土の素焼煉瓦様で赤褐色をしており、手づくりまたは型づぐりで轍櫨製のものはないようです。
また時代により蓋または胴の側部に各当時の印を捺してあります。
1684年(貞享元)刊の『堺鑑』に「湊壺塩、今の壺塩屋先祖昔年は藤太郎として猿丸太夫の末孫と云へり、花洛上鴨帛枝村の大也しに天文年中(1532-55)に当津湊村に来り住居してより以来紀州雑賀塩を土壺に大て焼反諸国へ商売して壺塩屋藤太郎と号し世に広めし故に今に至迄其子孫相続承応三年甲午(1654)に女院御所より天下一の美号不苦とあるようで、時の奉行石河氏是を承り頂戴す、叉延宝七年(1679)の比には鷹司殿より折紙状あるようで、呼名伊織とす」といいます。
堺の船待神社には女院御所より賜った奉書と、奉行石河土佐守より伊織家への書状を蔵しています。
また同社には1738年(元文三)に壺塩屋が寄進した竹公像の画幅があるようで、その裏面に願文があって、元祖藤太夫慶本・二世慶円・三世宗慶・四世宗仁・五世宗仙・六世円了・七世了讃・八世休心の名を連ね、九世藤左衛門の署名と印とがあります。
すなわち天文年間(1532-55)藤太夫という者が京都の幡枝土器の法によって壺をつくり、塩を大れて堺湊村から売り出し、のちには代々藤左衛門と称し伊織の呼名を用いました。
八代休心の時にはすでに大阪に出店を設け、のちに大阪に移り代々浪華伊織と称し、今なお焼塩の製造販売を営業しています。
『堺鑑』に初代を藤太郎としているのは藤太夫の誤りであります。
泉州麻生・泉州麿生の印のあるものは伊織家の壺塩を模倣したものであるといいます。
(『堺鑑』『堺焼塩壺考』)

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