

長兵衛殿 前田家伝来
略伝
初名作助、名は政一、法号大有、宗甫は参禅の師春屋に受く。号は孤篷庵。天正七年(1579)近江坂田郡小堀邑に生る。父の新助正次は大和大納言秀長の臣、備中松山(高梁)城主であり、遠州も26歳にして松山城一万二千四百六十石を継ぐ。 妻は藤堂高虎の養女である。世職の面では皇居造営、駿河普請奉行を歴任し、従五
位下遠江守に叙任、さらに名古屋城天主、禁裏、伏見城書院造営奉行を経て、松山から近江浅井郡に移封、伏見奉行となる。大阪城本丸仮御殿奉行、二条城および御幸御殿、仙洞御所造営の奉行を勤め、寛永六年(1629)恩賞金千両を賜う。
晩年、近江水口城、仙洞造庭、二条城茶席造営に従い、品川御殿、東海寺の普請を名残りに、正保四年(1647)二月六日伏見に死す、享年69歳。辞世は「きのふといひけふとくらしてなすこともなき身のゆめのさむるあけぼの」。その代表茶席は竜光院密庵、孤篷庵忘筌、金地院八窓などを数う。
茶系は古田織部高弟で、その地位は師が二代将軍秀忠の茶道に引き次ぎ、三代家光の茶道である。茶道芸術の総合的感覚において、織部とは趣を異にし、繊細、優雅、端正のいわゆる綺麗寂びなる王朝美の復古者であり、陶芸、歌道、書道、鑑定の各部面にわたる天才であった。すなわち陶芸面では遠州七窯を指導し、瀬戸諸窯から中興名物を選抜し、和漢茶器の鑑定に長じた。書は定家をねらって茶器箱書に新様を編み、勅選歌から茶器銘をとりあげるなど、茶道文化史上にエポックをつくった。
茶杓
筒も杓も保存のよき点で遠州茶杓の第一である。杓はずいぶん見事な竹で、全体に黒白片身替になり、切止の方の黒い斑文の中にごまを混えている。また節にも小さい凹みが景色となっている。櫂先も有馬山型(後に説明)で、厚手で中節が高く盛り上がっている。
筒
保存よく今でき上がったように真新しいのは、前田家の蔵深くおさまっていたことが納得される。
竹も「乱曲」と同じに、扁平で、しかも一種の曲り竹を利用して、遠州が器用に見事に書入れしている。つめは縞柿であり、遠州もかなり念入りにつくっている。
歌は「松島たちかへりまたもきて見む□□□や をしまのとまや浪にあらずな 長兵衛殿 床 遠子」
付属物
内箱 桐 白木 貼紙 書付
「茶杓第二番 遠州茶杓銘松島」
追記
松島の歌は『新古今集』巻十俊成の歌。歌の中の「松島」を空字にしたのは面白い。遠子名も珍しい。長兵衛は橘屋宗玄で、遠州愛弟子にして茶、書、歌など遠州に指導されていた。
所載
茶杓三百選
寸法
茶杓
長サ18.0cm
幅0.5―1.0cm
厚サ0.3cm
筒
長サ22.2cm
径2.3cm



