

生駒肩衝(いこまかたつき)
古瀬戸 大名物 酒井忠道 伯爵 所蔵
【名称の由来】
生駒讃岐守正俊(いこまさぬきのかみまさとし)が所持していたことからこの名があります。彼の父である讃岐守一正(かずまさ)は、慶長13年に初めてその家族を関東(江戸)に移住させました。これは大名が妻子を江戸に住まわせる(証人・人質制度)の始まりであり、幕府からの信頼はたいへん厚く、讃岐国(現在の香川県)17万石余りを与えられたほか、様々な公役(お役目)の半分を免除されました。正俊自身も関ヶ原の戦いや大坂夏の陣で功績を挙げ、慶長17年2月28日に徳川家康からこの肩衝茶入を拝領しました。世間ではこれを「生駒肩衝」と呼びます。正俊は元和7年6月5日に36歳で亡くなりました。その後を継いだ息子の高俊(たかとし)は生まれつき愚鈍で、麦の区別すらつかないほどであり、家臣たちの間で激しい訴訟が起こり国内が治まらなかったため、寛永17年7月11日、ついに領地を没収(改易)されてしまいました。
【寸法・重量】
高さ:3寸9分半(約11.97cm)
胴径:2寸4分2厘(約7.33cm)
口径:1寸3分(約3.94cm)
底径:1寸4分半(約4.39cm)
甑高(口作りの高さ):1分2厘(約0.36cm)
肩幅:1分2厘(約0.36cm)
重量:48匁9分(約183.38g)
【附属物】
・蓋:1枚(象牙製、裏面に「窠(穴やくぼみ)」の細工あり)
・御物袋:白羽二重、仕覆の紐は「つがり(組み紐)」で紫色
・仕覆(袋):「解き袋(仕立て直した袋)」が2つ
- 鶏頭切(けいとうぎれ)、裏地は玉虫海気(たまむしかいき)
- 渦純子切扱(うずどんす きりつかい)
・挽家(ひきや):黒塗り、面取り加工
- 挽家用の袋:色替阿蘭陀縞(いろがえおらんだじま)、紐は崩黄(くずれき)色、朱ちん(朱珍・織物の一種)
・内箱:黒塗り
- 内箱用の袋:色替唐草模様純子(いろがえからくさもようどんす)、裏地は玉虫海気、紐は紫色
・外箱:桐材、春慶塗(しゅんけいぬり)、懸子(かけご・中に乗せる浅い箱)付き
・添え状(添書付):2通
- 「この生駒は、大瀬戸茶入の最高峰とされる3つのうち、第一の名品である」
- 「大瀬戸茶入の3つとは、生駒、長谷川、そしてもう一つは平野、あるいは平手とも呼ばれているものである」
- 「もとは六角の三井家が所有していたものを譲り受けたものである」という旨。
【預かり証(預り一札の事)の記録】
・寺澤丸壷
・生駒肩衝
・玉柏茶入
・越後井戸
・染付茶碗
・瀬戸茶碗
以上の6品について、この度、金1,500両の御用達(資金調達)を申し受けたため、確かに担保としてお預かりいたしました。お金については予定通り承り、年限は5か年とし、毎年五朱の利息を加えてご返済いただく予定です。その際には、これらの品も間違いなくお返しいたします。後日の証拠としてこの証文を差し上げます。
天保15年(1844年)8月
【伝来(これまでの経緯)】
慶長17年(1612年)2月28日、生駒豊岐守正俊(当時、駿府城守を勤める)が、駿府において徳川家康から拝領したものです。正俊の跡を継いだ高俊が讃岐国を没収された際、高俊は息子の左近とともに出羽国矢島(現在の秋田県由利本荘市)に移住させられたため、その子孫たちも当然生活に困窮したと思われます。閑事庵宗信の『雪間草茶道惑解』には、「生駒家が所持していたが、子孫の手によって質に入れられ、江戸の蔵田七郎右衛門のもとにあった」と記載されています。その後、江戸深川の富商である冬木喜平次(あるいは小平次)の手に渡り、さらに京都の三井八郎右衛門(あるいは三井三郎助)へと伝わったようです。その後、谷松屋の戸田宗長を介して、寺澤丸壷など他の5品とともに、若狭酒井家(小浜藩主家)へ担保・預かり品として入れられた経緯が、前述の添え状の通り残されています。
【大正8年の実見記録(実際の調査記録)】
大正8年4月25日、東京市牛込区矢来町(現在の東京都新宿区矢来町)にある酒井忠道伯爵の邸宅にて実物を確認。
口の大きさや、甑(くびれ部分)の高さがわずかに異なるだけで、肩部分の作り込みの風合い、胴の中央に走る沈み筋(横線)、紫がかった地釉(じぐすり)と上部に掛けられた黒釉の雰囲気などは、名物「長谷川肩衝」とまったく双子(姉妹品)のような出来栄えです。
ただし、この茶入の裾から底にかけての部分に見られる、薄い鼠色あるいは赤みを含んだ土色の、鮮やかでさえざえとした美しさは、長谷川肩衝とは異なっています。糸切(底の切り離し跡)は細かく整っている方ですが、全体的に使い込まれて磨り減っており、その中心にある「石ハゼ(窯の中で小石が弾けて現れた白い突起)」が白い三角形の一点として特に目立っています。口縁(口のふち)に2か所の直し(修理の跡)がありますが、それ以外は長谷川肩衝とまったく同じ作風・職人の手によるものと判断できます。
【原文】
生駒肩衝
古瀬戸 大名物 伯爵 酒井忠道氏蔵
名称
生駒讃岐守正俊が所持せしに依りて此名あり。父讃岐守一正慶長十三年を以て初めて家を關東に徒す、是れ大名が其妻子を江戸に置きたる始めなれば、幕府の寵信斜めならず、讃岐國十七万石餘を賜ひ、更に公役の半を免ぜらる。正俊亦關原及び大坂夏役に功あり、慶長十七年二月廿八日家康より肩衝の茶入を拜領す、世に之を生駒肩衝といふ。元和七年六月五日歿す、年卅六。其子高俊資性魯鈍にして、裁麥を辨ぜず、家人間に訟訴起りて、國内治まらざりければ、寛永十七年七月十一日、遂に所領を沒收せらる。
寸法
高 参寸九分半
胴径 貳寸四分貳厘
口径 壱寸参分
底径 壱寸四分半
甑高 壱分貳厘
肩幅 壱分貳厘
重量 四拾八匁九分
附属物
一蓋 一枚 象牙 窠
一御物袋 白羽二重 緒つがり紫
一袋 解き袋 二ツ
鶏頭切 裏玉虫海気
渦純子切扱
一挽家 黒塗 面取
袋 色替阿蘭陀縞 緒つがり崩黄 朱ちん
一内箱 黒塗
袋 色替唐艸模様純子 裏玉虫海気 緒つがり紫
一外箱 桐 春慶塗 懸子付
一添書付 二通
此生駒は大瀬戸茶入三つの内にて第一の品。
大瀬戸茶入三つの内、生駒、長谷川、今一つは平野とも、平手とも申候由。
六角の三井所有ありしを譲り受くるもの也。
預り一札の事
一 寺澤丸壷
一 生駒肩衝
一 玉柏茶入
一 越後井戸
一 染付茶碗
一 瀬戸茶碗
右六品の儀、今度金千五百両御用達申候に付、預置候處實正也。金子の義は、豫定の通承ル申、年迄五ヶ年限、年々五朱の息金を加へ、御返辨可有之候、其節右品も無相違相渡可申候、爲後日御引替證文如件。
天保十五甲辰年八月
雑記
生駒正俊登城守 讃岐守一正の子、慶長十五年四月遺封を繼ぐ、同十七年二月二十八日駿府に於て松平陸奥守政宗と同じく御茶亭に候して、肩衝の御茶入をたまふ。(寛政重修諸家譜)
生駒肩衝は平野肩衝、長谷川肩衝と共に大瀬戸三つの内の名物也。(寛政二年日記覺帳)
生駒肩衝と申して大瀬戸御座候よし、底作は繩すだれのよしに御座候。(諸家珍器之覺)
大瀬戸 村雲、生駒、長谷川、神谷肩衝、四品、口傳切有可聞。(茶入見聞録)
生駒肩衝は古瀬戸なり、平野、山の井、鎗の鞘、大島、畠山と同時代なり。而して平野、山の井とは同手同樂立なり。(不昧公著瀬戸陶器濫觴)
生駒肩衝 大瀬戸 生駒殿所持、御子孫より質物に出る、江戸藏田七郎右衛門に有り。大瀬戸天下に四つ(鎗の鞘、平野、長谷川、谷川と共に)と云ふ。高さ二寸九分、蓋一枚、袋鶏頭切大紋也。(雪間草茶道惑解)
生駒肩衝 大瀬戸 生駒所持也。かけめ四十九匁四分、土あらき方、盆付に摺れあり、茶柿釉上に黒金氣あり。(寸法、茶入圖あり)(諸家名器集)
生駒肩衝 三井。大瀬戸手なり、目形四十九匁。(茶入見聞録)
かたつき 生駒豊岐殿朱入、倉田市右衛門より三井八郎右衛門。(箒庵文庫本玩貨名物記)
生駒肩衝 古瀬戸 大名物 三井。高参寸九分半、胴二寸四分半、口一寸三分、底一寸五分、懸目四十九匁八分。挽家黒塗袋紅毛島裏朱ちむ、蓋一枚、御物袋、淺黄羽二重、緒つがり紫。箱黒塗袋純子裏海気、外箱懸子春慶。袋二ツ、鶏頭切裏海気、うつどんす切扱切。(茶入圖あり)(古今名物類聚)
生駒 古瀬戸 三井三郎助所持 京都にて一覽、柿金氣、黒禾のやうにむらくもかかる。置形なし、胴筋太く、本糸切少しあらく、肩の作り平野に似る。(寸法、附属物、茶入圖あり)(麟鳳亀龍)
生駒肩衝 藏田七郎右衛門より冬木小平次所持。袋大鶏頭切。明治八年夏。(茶器目利聞書)
生駒肩衝 土あらき方、盆付少しする、地柿こまかき斑、金氣あり、上は薬黒。(寸法、附属物、茶入圖あり)(勝海舟本銘物控)
傳來
慶長十七年二月二十八日、生駒豊岐守正俊が駿府に於て徳川家康より拜領せるものなり。正俊の嗣子高俊、讃岐國を沒收せらるゝや、正俊は其子左近と共に出羽國矢島に移住せる程なれば、其子孫も亦定めて落魄せし事なるべし、閑事庵宗信の雪間草茶道惑解に「生駒所持、子孫より質物に出る藏田七郎右衛門にあり」と見えたり、夫れより江戸深川の富商冬木喜平次の手に入り、更に京三井八郎右衛門に傳はれるものゝ如し。其後谷松屋戸田宗長より、寺澤丸壷以下五品と併せて、酒井若州家に預け入れたる事前揭添書付の如し。
實見記
大正八年四月二十五日、東京市牛込區矢來町、酒井忠道伯邸に於て實見す。
口の大きさ、甑の高さ少し相異するのみにて、肩部の作風、胴中の沈筋、紫地釉黒上釉共、長谷川肩衝と全く姊妹品なり、但し此茶入の裾より底に掛けて薄鼠若くは赤味を含みたる土色の冴え/\としたるは、長谷川と同じからず、糸切細き方なれど、總體磨り減らし、其中心にある白き三角の石ハゼ一点殊に目立てり。口縁に二ヶ所繕ひあり、其他長谷川と全く同作なり。


