


本阿弥肩衝(ほんあみかたつき)
瀬戸大肩衝 侯爵 徳川義親氏所蔵
名称
京都の本阿弥家にあったことからこの名がある。おそらく本阿弥光悦が愛蔵していたものであろう。
寸法
高さ:約11.8cm(三寸九分)
胴径:約7.3cm(弐寸四分)
胴回り:上部 約20.9cm(六寸九分)/ 下部 約23.3cm(七寸七分)
口径:約4.2cm(壱寸四分)
底径:約4.8cm(壱寸六分)
甑高(こしだか):約1.5cm(武分)
肩径:約6.1cm(武寸)
肩幅:約1.7cm(武分五厘)
重量:約245.6g(六拾五匁五分)
※1寸=約3.03cm、1分=約0.303cm、1厘=約0.0303cm、1匁=約3.75gとして換算。
付属品
・蓋:1枚(窠/くわのす)
・袋(仕覆):1つ
茶地広東(おんつがり、玉虫、紫)
・挽家(ひきや):唐木(蓋につまみあり)
胴に梅と蜻蛉、蓋に宝尽くしの金蒔絵がある
「本阿弥肩衝」
・添書付(そえがきつけ):由来書1通
・瀬戸大肩衝御茶入
袋:間道(かんどう)
挽家:花梨(かりん)模様、竹梅、宝尽くし蒔絵
この御茶入の由緒について、茶道方(茶の湯の係)に伝わっている記録はありませんが、以前、竹腰近江守から「本阿弥肩衝」という御茶入であるとして献上されたという伝承があります。
しかし、詳しい事情はよく分かっていません。古くは竹腰山城守道輝が、この瀬戸大肩衝の茶入を京都の本阿弥家から黄金300枚で買い調えて所持していたため、この大肩衝を「本阿弥肩衝」とも呼ぶようになったと言われています。
この茶入を瑞龍院様(尾張藩2代藩主・徳川光友)がご覧になった際、お庭焼き(藩主の私窯)で模倣して焼くよう命じられ、その写し(影焼)を作らせました。その影焼の御茶入は、寛文10年(1670年)戌3月、宗謙山城守が江戸へ上った際、将軍(あるいは藩主)の御前で拝領しました。同年、さらに影焼の制作が命じられ、同年の冬10月に国元(尾張)から小瀬新右衛門が受け取りの札を持って千村助左衛門のいる江戸へ持参し、重ねて拝領したとのことです。
一、延宝5年(1677年)巳の春、宗謙山城守が病死したため、その遺品として、同年3月に江戸にて「大肩衝御茶入」および「来国次(らいくにつぐ)の刀」が献上されました。この時の趣旨は、志摩守の記録に書き留められています。ただし、この大肩衝については、この時にお内意(内密の意向)によって献上されたと伝えられています。
一、この大肩衝御茶入と、志摩守家が所持している拝領の影焼2つをこの度引き合わせて詳しく吟味したところ、寸法や形状がまったく同様でした。その上、本品の茶入の胴には小さな四角い押型(印)が2つありました。影焼の2つにも同様にその押型が2つともあったため、この大肩衝は、間違いなく以前に志摩守家から献上された大肩衝であると判明しました。
一、この本阿弥肩衝については、役所の記録に混乱があるかもしれないとのことで吟味を行いましたが、年月が経ちすぎていて容易には分かりませんでした。そのため、山本地道治も長年心にかけ、寸法や形状が似ている同類の茶入を次々と選び集めておいたところ、この度改めて吟味した結果、右の通りの由緒であると決定いたしました。
延享2年(1745年)丑4月
延享2年(1745年)丑5月
これは、延享2年(1745年)丑の年、お道具類の由緒などの吟味を島七郎右衛門(加賀島七郎右衛門)に命じ、委細の由緒が決定したため、この度このように改めて記録を残すものである。
伝来
本阿弥肩衝
前述の添書付にあるように、尾張藩の家老である竹腰山城守道輝が、京都の本阿弥家から黄金300枚で購入した。それを延宝5年(1677年)の春、同山城守宗謙の遺品として、竹腰家から尾張侯(徳川家)に献上したものである。
実見記
大正8年(1919年)6月6日、名古屋市東区大曽根町の徳川義親侯爵邸において実際に観察した。
瀬戸肩衝。紫がかった地釉の上に、黒釉がむらむらと鶉(うずら)の斑点のような模様を成している。意図的に流された黒釉の「なだれ」は底の近くで止まっている。大きな筒のような形状で、胴には太い轆轤(ろくろ)の筋がめぐり、腰は少し張っており、裾から下はさらにすぼまっている。鼠色の土で見事な糸切(底の切り離し痕)がくっきりと鮮明に残っている。大ぶりな器形であるが、ゆったりとしていて作風に鈍重さがない。まさしく本阿弥光悦その人が愛蔵した品であると納得させられるものであり、これに対峙していると無限の興味が湧いてくる茶入である。
【原文】
本阿彌肩衝
瀬戸大肩衝 侯爵 徳川義親氏藏
名称
京都の本阿彌家に在りしを以て此名あり、蓋し光悦の愛藏せしものならん。
寸法
高 参寸九分
胴徑 弐寸四分
胴廻り 上部にて六寸九分 下部にて七寸七分
口徑 壱寸四分
底徑 壱寸六分
甑高 武分
肩徑 武寸
肩幅 武分五厘
重量 六拾五匁五分
附属物
一 蓋 一枚 窠
一 袋 一ッ
茶地廣東(緒つがり、玉虫、紫)
一 挽家 唐木 蓋つまみあり
胴に梅蜻蛉蓋に寶盡の金蒔絵あり
本阿彌肩衝
一 添書付 由来書一通
一 瀬戸大肩衝御茶入
袋 かんどう
挽家(くわりんもよう、竹梅、寶盡蒔絵)
右御茶入由緒、茶道方に申傳無御座候得共、先年竹腰近江守より、本阿彌肩衝と申御茶入指上申傳御座候。
得共、難相知候。古來道輝山城守、瀬戸大肩衝之茶入を、京都本阿彌家より黄金三百枚に相調、所持仕候付、右大肩衝を本阿彌肩衝とも唱候由に御座候。
右茶入瑞龍院様(尾藩主第二代徳川光友)御覽が御庭瀉被仰付、御燒せ被遊候、右影焼之御茶入、寛文十年戌三月、宗謙山城守参府之節、於御前拝領、同年影焼被仰付、同冬十月、御國元より小瀬新右衛門、奉札を以て千村助左衛門江戸へ持參、重而拝領仕候由に御座候。
一 延寶五年巳春、宗謙山城守病死、爲遺物、同三月、於江戸、大肩衝御茶入并來國次御刀差上候由、右之趣、志摩守所に書留有之候。
但、右大肩衝之儀、此節依御内意指上候由申傳候。
一 右大肩衝御茶入者、志摩守家に所持仕候拝領之影焼二つ共、此度引較の吟味仕候處、寸恰好同様にて、其上御茶入にも、胴に小さき四角成押型二つ有之候。右影焼二つ共に、如其押型二つ衆有之候へば、此大肩衝、彌先年志摩守家より指上候大肩衝に必定無紛相見へ申候。
一 右本阿彌肩衝之儀、役所に紛可有之由にて、吟味仕候得共、年数難相知、因茲山本地道治儀も多年心懸、寸恰好、比類之茶入、追々撰置候處、今般吟味之上、右之通相決申候。
延享二年丑四月
延享二年丑五月
右者、延享二年丑年、御道具類由緒等之儀、御吟味、加賀島七郎右衛門へ被仰付、委由緒決候に付、此節、右之通改記置。
傳來
本阿彌肩衝
前掲添書付にあるが如く、尾藩の家老竹腰山城守道輝が京の本阿彌家より黄金三百枚にて求めたるを、延寶五年春、同山城守宗謙の遺物として、竹腰家より尾張侯に献上せるものなり。
實見記
大正八年六月六日、名古屋市東區大曾根町徳川義親侯邸に於て實見す。
瀬戸肩衝、紫地釉の上に黒釉ムラ~と鶉斑を成し、置形黒釉ナダレ、底際に至りて止まる、大筒形にして胴に太き轆轤筋繞り、腰少しく張り、裾以下更に窄まる、鼠色土糸切細くして鮮明、大形なれども悠容として作行鈍ならず、如何様光悦其人の遺愛品と首肯せられ、これに對して無限の興味を覺ゆる茶入なり。



