伝来
尾州十一屋小出庄兵衛―横浜茂木家―横浜原三渓(大正十年)
所載
名物目利聞書 紀国屋彦二郎著閑窓雑記 大正名器鑑
寸法
高さ:9.6~10.1cm 口径:11.5cm 高台径:6.5cm 同高さ:0.9cm 重さ:374g
立鶴は釜山窯の御本茶碗の中では最も有名で、御本茶碗といえば世上すぐ立鶴を連想するほどです。立鶴は人気がありましたので、その後もたびたび焼かれて。最初の作をとくに本手とよんで区別しています。本手立鶴は将軍家光が細川三斎の賀の祝いに画いた立鶴を下絵としたという伝えも、立鶴茶碗の名を高からしめています。釜山の豆毛浦倭館の開窯が寛永十六年といわれ、おそらく開窯早々の作とみられます。
本手立鶴は少ないものですが、中でもこれは名古屋の十一屋伝来で、本手の随一といわれています。薄手筒形で、ロ縁かすかに端反り、胴忙は轆轤11も見え、やや締まって変化があります。総体やや青みがかった淡柿地に鹿の子や火替り美しく、胴の前後に立鶴の押し型があって、白黒の象嵌にな→ています。見込みにも鹿の子一面に出て美しく、火間の景があります。高台は三つ割りで、兜巾立ち、脇取りは穏やかです。
御本本手立鶴茶碗 ごほんほんてたちづるちゃわん
立鶴は釜山窯の産で、古来茶人に人気があり、その写しがたびたび焼かれていますので、最初の作を特に本手と呼んで区別しています。
薄手筒形で口縁がかすかに端反り、胴には轆轤目もみえ、総体やや青みがかかった淡色地に、鹿の手や火変わりが美しく、胴の前後に白黒の象嵌による立鶴の押し型があります。
見込に鹿の手が一面に出、火間の景があります。
高台は三つ割で兜巾が立ち、脇どりはおだやかです。
本手立鶴の文様は、将軍家光が細川三斎の賀の祝いに描いた立鶴が下絵となったと伝えられます。
《伝来》名古屋十一屋小出庄兵衛-茂木家-塵二渓
《寸法》高さ9.6~10.1 口径11.5 高台径6.5 同高さ0.9 重さ374
御本 本手 立鶴 茶碗
高さ:9.8~9.9cm
口径:11.2~11.5cm
高台外径:6.4cm
同高さ:1.0cm
立鶴は釜山窯の御本茶碗の中では古来最も有名で、御本茶碗といえば立鶴を連想するほどになっています。立鶴は茶人にすこぶる人気がありましたので、そのごもたびたび注文して釜山窯で焼かれましたが、最初の作を特に本手と呼んで区別しています。本手立鶴は、将軍家光が細川三斎の賀の祝いに描いた立鶴を下絵としたという言い伝えも、立鶴茶碗の名を高からしめているゆえんです。豆毛浦倭館の開窯が寛永十六年といわれ、おそらく開窯早々の作とみられます。
本手の作は薄手の筒形で、胴がやや締まり、口はやや端反り、胴の前後に立鶴の押し型があり、白黒の象眼になっています。高台は三つ割り、脇を切り回しています。素地は細臓な赤土で、半透明の水釉がかかり、土見高台です。総体淡柿に上がり、御本特有の紅斑の鹿の子や火替わりが美しい景をなし、指あとや釉のかけはずしも趣を加えています。後世の立鶴に比べて作柄や釉がかりなど、すべて格段にたちまさりますが、たとえば高台三つ割りの切り方にしても無造作で、新鮮味があり、後世の作の形式に堕したものとは雲泥の差です。加えて、総体に古格に伴う品のよさがあふれています。
本手立鶴はほかに宇禰野など、わずかに数碗を数えるのみですが、本碗はことに名古屋の十一屋伝来で、古来本手中の随一と称ぎれたものです。口縁が品よくかすかに反り筒形のうちに胴の曲面やや締まって変化をみせ、総体にやや青みがかった淡柿地に鹿の子や火替わりが美しく映えます。胴から裾にかけて、指あとやかけはずしがあります。引き目の細筋も内外にわたって、きりきりと冴え、見込み側面にも鹿の子が一面に出て、火間がみられます。高台脇の切り回しは穏やかで、一面に案穴があって美しく赤みざしています。高台内の兜巾は鋭く立って、一気に削った三つ割りがあざやかです。
もとも切り形による作意十分のものながら、かの地陶工の練達の技は細巧に堕さず、朝鮮本来の陶技の味を生かしきって、雅味横溢の作を仕上げているのは、偉とせねばならない。付属物は、
内箱 桐白木
外箱 春慶塗り
もと名古屋の名家十一屋(小出家)伝来にかかり、のち横浜の茂木惣兵衛の有となりましたが、大正十年、同家売り立て入札に、四万八千円の高値で、原三渓の蔵に帰しました。そのとき、益田鈍翁と森川如春が三渓に、値段にかかわらず買うよう忠告の電報を打った話は有名で、その電報も資料として付属物になっています。そのご近年になって、現在の所蔵者の有となりました。
(満岡忠成)