近江国(滋賀県)彦根藩主、幕府の大老、茶人。
1815年(文化一二)生まれ。
宗観と号し、また樹露軒・埋木舎・柳王舎とも称しました。
直中の十四男として永らく三百俵部屋住の身でありましたが、その間学問に精進し修禅につとめ、1850年(嘉永三)兄直亮没後の家封を継ぎ、1858年(安政五)大老職に就いました。
紀州の慶福を迎えて将軍とし(十四代家茂)、また困難な外交問題に当たつたが、安政の大獄などその酷政を志士に怨まれ、1860年(万延元)3月3日桜田門外で攘夷党の水戸藩士らに襲われて死んです。
四十六歳。
早くから茶道を好み石州流片桐宗猿について奥儀を極め、有名な「一期一会」「。
独坐観念」の語はその深い実践から生まれた直弼の茶の理念でありました。
著書『茶湯一会集』は三十一歳の時から十余年を費やして成ったもので、ほかに十種に近い茶の著述を残しています。
また楽焼を好み茶碗・茶入・香合などの遺作が多いようです。
藩窯湖東焼についても先代直亮のあとを受け、五聞の丸窯を七間とし、1855年(安政二)尾張国(愛知県)の市四郎さらに伝七らを招き、江戸の陶工三浦乾也からも伝を受け、大老職の激務中にも常に意を用い自ら意匠を授け、諸種の財政困難の中にもかかわらず染め付け・赤絵ともに優秀な器を製出させました。
なお好みの茶器として八代宗哲につくらせた十二ヵ月棗が知られています。